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2025年9月17日水曜日

心ふるえる唄。

日本の音楽界に多大な影響を与え、70歳を過ぎても現役で活躍するシンガーソングライターに目が離せない。なんたって我が青春そのものだ。

小田和正78歳、矢沢永吉76歳、さだまさし、中島みゆき73歳、山下達郎72歳、松任谷由実71歳に続き、桑田佳祐、竹内まりや、松山千春は私と同学年の70歳。因みに私の十八番「お掃除オバチャン」の元憂歌団の天使のダミ声、木村充輝は71歳である。

彼らの独自の世界観は類まれな才能が成せる技で、今もライブは満杯で我々に夢を与えてくれる。彼らのライブに行きたいが、みな人気がありすぎてチケットが手に入らないのだ。💦


私は一昨年、友人の誘いで「矢沢永吉」ライブに出かけ、彼のパフォーマンス、最高のバンド、熱狂する観客の一体感に完全にやられた。実は1978年入社したカネボウ夏キャンペーンが「Mrサマータイム」vs資生堂は永ちゃんの「時間よ とまれ」。あの夏は矢沢永吉が憎らしかったが、今では圧倒的存在の熟年の永ちゃんに完全に魅せられている。

■新曲「真実」:https://www.youtube.com/watch?v=bdZEFmbAEwE


先日は最年長の小田和正ライブに娘と行ったが、憎めない毒舌と優しい声とメロディに興奮した。矢沢永吉とは全く異なるファンも印象的だった。


「いのちの歌」で元気をだして 


若い頃は竹内まりや「元気をだして」に癒された。その彼女が作詞して2014年にカバーした「いのちの歌」、当時は聴き流したが、70歳の今、彼女が唄ういのちの歌に感動した。命と向き合う年代になり、歌詞の深みを実感して心が震えるのだ。

■いのちの歌:https://www.youtube.com/watch?v=GhRdNGX9Pp4


アーティストは活動を重ねる度にファンが広がる。初めて歌に出会う人、歌と共に思い出を重ねる人。誰もが自分の琴線に触れた時に、私の「心ふるえる唄」へと醸成されていくもの。

我々も、人として加齢と共に熟成・進化したいものだ。私の目標は自慢話は一切語らず、相手が求める事だけ助言する「謙虚な賢人」になることだ。

「賢人は愚かな人からも学び、愚かな人は賢人からも学ばない」と言われるが、賢人のコツは反面教師も含めて「我れ以外はみな師」と心得ることだ。

だから人生は『一生勉強、一生青春』なんだなぁ。





2024年6月15日土曜日

よっ 若大将!

 昭和の思い出は数あれど、TVと映画が対峙していた頃、大好きな映画に加山雄三の「若大将」があった。You Tubeの若大将マニアの解説を観て、懐かさに思わずセット買いをしてしまった。

この映画、大学スポーツ万能の若大将(加山雄三)を主人公に青大将(田中邦衛)とスミちゃん(星由里子)との痛快青春コメディ。とにかく若大将がカッコよく観ていて心地良い。

第1作1961年「大学の若大将」6歳の私はその後の再上映でドハマり。話題のシーンは若大将たち水泳部が大学の浄化槽の蓋で焼肉を焼く場面。脚本では公共のマンホールだったが、東宝幹部の「良識ある大学生はしない」と中止。それを逆手にとりマネージャーが便所の浄化槽の蓋を拝借、そこに用務員がハマる設定にして強行撮影。

結果は大受けで、幹部の「次回はマンホールで」の声には制作部を呆れさせた。しかし改めて若大将を観ると彼の破天荒ぶりと人の良さに驚く。

大学の授業料は使い込む、すぐ喧嘩して店は壊す、若大将の為に祖母が家業のすき焼き・田能久の肉や運転資金を流用と、犯罪紙一重なのに毎回父親の「勘当だ」で済むし、果ては若大将の大活躍で全て丸く収まるから不思議だ。

まぁそこは深く考えず、彼の奮闘と高度成長期の勢いを楽しもう。当初の3部までの話は4作1963年「ハワイの若大将」の大ヒットで継続は確定。

しかしこの後、黒澤明「赤ひげ」で加山は1年間拘束され人気低迷を案じたが、5作1965年「海の若大将」で自作の歌もヒットし前作を上回る興行成績となり若大将は確固たる地位を確立した。

同年の6作「エレキの若大将」は彼の音楽的才能に溢れ音楽映画としても大ヒット。突如スミちゃんと歌う「君といつまでも」はあまりに有名だ。このレコードは翌1966年に350万枚のトリプルミリオンセラーとなったのだ。

その後の4作品も人気は続くが、加山30歳の学生服はさすがに不自然で11作1968年「リオの若大将」で彼を卒業させ終了と考えたが、世間は許さず東宝得意のサラリーマン劇場に移行していく。酒井和歌子のせっちゃんも初々しい。

高度成長の自動車メーカーを舞台に13作1969年「フレッシュマン若大将」もはまり役で、それ以降の会社員シリーズも見逃せないが、個人的には大学の若大将シリーズが最高だ。


若大将シリーズの苦悩と再生。


会社は次の若大将を狙い16作1971年「若大将対青大将」は加山主演だが、田能久は登場せず二代目の大矢茂も中途半端で、惨憺たる結果となる。その後の三代目の草刈正雄も振るわず、若大将シリーズは残念だが終焉を迎える。

ところが1975年に突如、若大将のオールナイト興行が爆発。若い人にも大ブームが起き、大学生の私も新宿のオールナイト一挙4本上映で一緒に歌い大声援の観客参加型を体験。その盛り上がりは凄まじく次回作に繋がるきっかけとなった。

それが、彼の芸能生活20周年の記念作品1981年「帰ってきた若大将」だ。全編が若大将のオマージュに溢れたこの作品は、本来の若大将の魅力が満載で大ヒット。加山雄三の若大将は見事に有終の美を飾ることになったのである。


昭和映画のシリーズ化の成功は、若大将、男はつらいよ、釣りバカ、ゴジラなどあるが、共通点は①主人公の強烈なキャラ②配役の魅力③安定のワンパターン。この三つが揃い「主人公の虜」になればマンネリは歓喜の定番化になるのだ。

昭和映画史に輝く若大将こと加山雄三は、湘南生まれの慶応ボーイ、スポーツ万能、シンガーソングライター、画家とまさに異能の87歳。

熟年でも私には永遠の若大将。憧れの彼に長寿祈願と感謝を込め一言「よっ若大将!」。










2021年8月30日月曜日

ゴジラざライド!

感染の話は重要だが、緊急事態は気が重くなる。こんな時は気分転換に気楽な話と思い、不謹慎ながら宣言前の私のワクワク体験を取り上げた。


実は、春から気になるスポットがあった。それは「新・西武園ゆうえんち」。1960年代の昭和の商店街とゴジラ大怪獣頂上決戦など、昭和オヤジには泣けてくる内容なのだ。しかしコロナ禍での開園となり成り行きを見守っていた。

昭和レトロ市場は年配者だけでなく、若者には非日常の新感覚らしく80年代ダンスミュージック、ラジカセ専門店、レコード、純喫茶の人気など新たな市場が生まれている。

昭和の64年間は戦前・戦後、バブル・崩壊と背景と変化が大きく異なり、簡単に一括り出来ない。

私の青春は昭和30~50年。東京五輪、万博、マック上陸と高度成長真っ最中。この頃が市場的にも最大ボリュームで、西武園も例外ではない。

当然、別の世代も古き良き時代がある。昭和45年(1970)生まれの家内は、ファミコンの昭和50年から昭和終焉のバブルと崩壊が青春時代。

故に15年差の家内と西武園は少しズレるが、以外に平成組の子どもが乗り気で、緊急事態の前がチャンスだと家族で西武園に出かけた。

夫婦は懐かしく子どもは興味深々の1日だった。話題のゴジラ・ザ・ライドは凄かった。体験型アトラクションとして必見の価値ありだ。

商店街は専用紙幣「拾圓と百圓札」を使う設定も面白い。昔のライスカレー七拾圓也が、高いか安いかは世代別で意見の分かれるところだ。

ポン菓子や街頭テレビの前で、ポン菓子オヤジがリアカーで作り売りに来たことや、街頭TVのプロレスに人が群がる話をしたが、家族には理解不能とスルーされた。💦


モノよりコトを大切に!


当時はスマホもPCもなく、不便でずっと質素だったが、周りの温かい価値感に包まれていた。我々には本来、助け合い励まし合う「向こう三軒両隣り」の精神が根っこにある。

震災時のように、向こう三軒両隣りの心配りで、今こそ地域が一丸となる局面にいる。昔の町内の事情通のお節介おばさん登場だ!


昔の三種の神器はTV・洗濯機・冷蔵庫。今はドラム式洗濯機・スマートスピーカー・ロボット掃除機らしいが、所詮不要な人には無用の長物。

今は「物より事」の時代。モノは多様だがコトの価値は変わらない。何に幸せを感じるかで、今は心の在り様や自然回帰へと変容している。

物質的な豊かさでは、心の平穏や安らぎは得られない。深呼吸して立ち止まる事も重要。

交通網の急拡大に「狭い日本そんなに急いでどこへ行く」の73年全国交通標語と「気楽に行こうよ♪俺たちは」の71年モービル石油CMを思い出す。

これは、働き過ぎで「日本株式会社」「経済アニマル」と揶揄された頃の作品。当時のモーレツ社員に「たまには肩の力を抜こうよ」と問いかけて話題になったが、気分の重い今こそ、肩の力を抜き一息つくのが必要かもしれない。

因みに、このCMをYouTubeで再視聴したが、今ならコンプラ的に絶対流せないなと思う。

やっぱり「昭和」は、おおらかな時代である。







2021年5月14日金曜日

今でも信じ難い事件。

 世の中には信じ難い出来事がある。つまり常識や想定を超えた体験をいう。私もまだ若くて経験不足の頃、ぶっ飛んだ事件に出くわした。

昭和の話だが、友人は「今になっても信じ難い事件」だと言う。若気の至りとご容赦願いたい。

それは大学寮で起きた「隣室の男が殺害された事件」と「学生運動家と暴走族の対峙」の二つの事件で、どちらも身の危険を感じた事態だった。


驚愕の学生寮事件。


1回生の私は法政大学府中寮の寮生だった。広いグランドに鉄筋四階建て、8畳2人部屋、朝晩食事付き月7,500円は格安で、苦学生が多かった。

ある夜のこと、隣り部屋の4回生の「長髪」男が部屋にきて、いきなり私と同室の友人に鉄パイプを渡し「今夜、革マル派が寮を襲撃するとの情報が入った。襲われたら鉄パイプで身を守れ」と言う。あまりに突拍子な話で理解できない。

「何ですか急に。襲撃とか理解できません。それに私は学生運動とは無関係ですが」「お前が無関係かは奴らに分かるわけない」「ですが…」「だから防戦しないと死ぬぞ」信じ難いが、今夜は鉄パイプを抱いて寝た方が良さそうだ。

結局、何もなく朝を迎えた。なんだ、ガセかと思ったら長髪が「寮の手前で夜中に革マルが凶器準備集合罪で一斉検挙され未遂に終わった」と。

半信半疑が食堂のTVから「国分寺で学生集団が一斉検挙」には鳥肌がたった。次の驚きは、長髪は全共闘の大幹部で、彼を狙っていたことだ。

長髪は速攻行方をくらまし潜伏。2週間ほど経った頃、警察が隣りの部屋を家宅捜索に来た。何と、身元不明で公開中の神田川の撲殺死体は「長髪」だった。1974年の夏である。

学生運動は、1971~72年の狂気の連合赤軍事件がピークだが、赤軍の流れをくむ全共闘と中核派は、敵対する革マル派との抗争を「法政大vs中央大」闘争として継続していた。


新入生を舐めんなよ!


寮の自治会は寮長、副寮長、各階の階長で、自主運営されていた。入寮した1年生に役職が割り振られ、私は4階の階長になっていた。

入寮暫くは、金曜のカレーを全員が食べられる対策を議題にするなど自治会は平和だった。ところが、徐々に寮の実態が判明してくる。

数年前、府中寮が主体の「学費値上げ粉砕運動」は超過激で、これを止める替りに大学側から寮の自主独立を勝ち取ったと聞く。

寮を牛耳る全共闘は、無垢な1年に自治会幹部をやらせ、何かあった時の人柱にしていたのだ。

責任と雑用に追われる1年は、冗談じゃないと思いながら、このまま我慢するのか!

悶々とする私に、後輩の暴走族総長から近況報告の電話が入り、ピンと閃いた。「横暴な寮の先輩に会いに、特攻服で全車両グランドに集合してくれ」「押忍、事情は分かりました。派手に行きます」ここは阿吽の呼吸だ。

土曜の夜8時、遠くからゴッドファーザー愛のテーマのクラクションが聞こえる。爆音を響かせ、正門から続々と入りグランドに隊列を組む。横一列に4輪の前に2輪が並び、車両から降りた特攻服が前列に揃う姿は、さすがの迫力だ。

寮生達は窓を開け「何事か」と顔を出す。私は隊列中央に歩み寄り直立の特攻服に一礼。片手を上げ「よーし、ご苦労」全員を見まわし「これにて解散!」と叫び、手をおろす。

一同「オス」と頭を下げると車両に乗り込み、順に派手な音を響かせグランドを一周し正門から消えていく。二度と見られぬ闘争家と暴走族が対峙した光景は、今だに忘れられない。


変化は摩擦を生み、摩擦は進歩を生む。


30分の出来事だったが、寮生には強烈な出来事で全共闘リーダーの死も重なり、彼らのトーンは急速に下がり始める。こうして、大学と対立してきた寮の自主独立は変化していく。

当時の私は大した信念もなく、ただ「俺たちを舐めんな!」だけだった。軽率な行動だが、何かをせねば、何も変わらないと思ったのは事実。

「変化は摩擦を生み、摩擦は進歩を生む」の言葉を思い出す。この事件が進歩を生んだかは怪しいが、行動を起こす原点にはなった。

何れにせよ、血気盛んな府中寮は徐々に落ち着き、2010年には老朽化で廃寮となった。今では信じ難い思い出が残るだけである。長髪に合掌。










2019年4月26日金曜日

令和に思う「激動の昭和」

混乱なく平成から「令和」に変わる。今から30年前、昭和天皇の崩御は社会的影響が大きくて、あらゆる分野に支障が出た。自粛ムード一色で、会社の行事、TVの娯楽番組は一切中止。レンタルビデオ店の在庫は空っぽになった。

今は生活の中心がスマホに変わり、新聞もレンタルビデオもTVも存在自体が影を潜める。若者と年配者の嗜好、思考、指向がこれだけ乖離し二極化するとは思わなかった。

ウチの家族は、私の影響で昭和文化には馴染んでいた。そのお陰か、先日娘に感謝された。と言うのも、就活での2次面接から昭和おじさんが面接官になるらしい。IT企業と違い、建設業界の上位職は年配が多いのだ。娘は全くあがらず普段通りの会話ができたようだ。

おじさんとの会話が圧倒的に少ない同級生は、緊張で戸惑ったらしい。面接で食いつく箇所や突っ込みが父親と同じだそうだ。私との面接官視点での予行練習が役に立ったとご満悦。娘は、私のアドバイスより年配者に慣れているのが主要因とは、私は少し面白くない。

パンタロン キメ顔の母 セピア色


これは「昭和川柳」優秀賞だが少し切ない。国内の65歳以上の構成比は27%で、17歳以下の12%しかない。年配者の市場は年々大きくなり、昭和のレトロ回帰が盛んで、懐メロ番組、昭和の街づくりや書籍など大人気だ。

先日、友人の定年祝いで、贔屓の浅草の虎姫一座「昭和歌謡・シャボン玉ホリデー」を楽しんだ。ザ・ピーナッツの名曲を口ずさみながら、好きだったスターを尋ねたら「酒井和歌子」と「天地真理」。おー俺も!と3人で大笑い。

やはり懐かしいのは昭和30年~50年代、少しの我慢と不便が当たり前で、高度成長を背景に求める物や憧れの対象が同じなので、市場の構造がシンプルで分かりやすいのだ。

あの頃は、親父も先生も怖かった。向こう三軒両隣、近所のおばさんは身内並みの事情通。見舞いのバナナが珍しく、外食なんぞ年一回、緊張の黒電話と手紙が告白の主流。巨大なアメ車と冷蔵庫の米国TVドラマの生活に憧れたものだ。

今の40歳代も20年後には平成を懐かしむ。やはり「今の若い者は」と愚痴る筈。いつの世も不変で大切なことは「人との付き合い」と「未来に期待が持てる」かどうかだ。

そして後悔とは、やったことの失敗より、やらなかったことへの遺恨である。令和には「やらなかった失望」を無くす!と皆でご「唱和」を。

嬉し懐かし昭和の写真!







2018年10月6日土曜日

素晴らしき日曜日

我が家のひかりケーブルに「黒澤明」シリーズが再登場。改めて作品を眺め「七人の侍」「赤ひげ」など代表作は感慨深いが、結構知らない作品があることにも気づいた。

その中の一つ「素晴らしき日曜日」1947年(東宝)を初めて鑑賞した。敗戦直後の東京を舞台に、貧しさに立ち向かう恋人の姿を描いた作品である。この黒澤の初期作品の評価は賛否両論分かれるらしい。それも肯定派と否定派が同じシーンで分かれるのが興味深い。

焼け野原が残る昭和22年。人々は貧しく不便を我慢しながら生きていた時代。お金はないが楽しいデートの筈だった恋人同士が、モデルハウスでバカにされ、知り合いを尋ねても金の無心と勘違いされ、だんだん惨めになる彼と、必死でフォローする一途な彼女。

映画の終盤。気を取り直した彼は、誰もいない野外音楽堂で演奏の真似事をするつもりが、北風に邪魔され舞台にあがれない。唯一の観客、彼女の拍手も届かない。ふっと顔を上げた彼女が「私達に元気をください」と映画を見ている観客に拍手を呼びかけるのだ。まっすぐに、観客の我々に目を向け、涙ぐんで語りかけるのである。

映画の常識を超えた演出に「拍手で応える客はいない」と否定的な考えの人と「観客と一体化させる試みが素晴らしい」と肯定する人と真っ二つに分かれるシーンだ。
実は、この映画がフランスで上映されたとき、観客が拍手喝采の総立ちになったと聞く。

うつむく彼は、万雷?の拍手に後押しされ、彼女の編み棒を手に持ち、舞台中央でコンダクターになって指揮を始める。すると空想のオーケストラの音が聞こえてくる。二人の未来が、音楽によってモノクロから総天然色に変わったかと錯覚してしまう場面だ。

観客が、主観的な応援団になるか、客観的な第三者になるかは、あなた次第である。映画は娯楽の玉手箱。単純な私は、世間の風(北風)に負けるな!と拍手喝采のエールを贈った。そのほうが楽しいし、真摯な彼女の訴えに素直に応えたくなったからだ。

何でも、出来上がった物への批判は簡単である。まずは文句や批判の前に、作り手の感性に近づく努力をしてみる。そのうえで納得できなければ、代案を考えるのがセオリーだ。

私は黒澤明の狂信的なファンではないが、常に本物に拘った映像と緻密な演出で、数々の傑作を生み出したことは事実。秋の夜長「素晴らしき日曜日」を観るのも一興である。鑑賞希望の方は、私からのネタばれを心よりお詫び申し上げたい。で、拍手はあなた次第。

黒澤明の迷作、名作?



2018年4月14日土曜日

虎姫キャンディーズで思うこと

久しぶりに友人と「虎姫一座」に出かけた。5年ほど前に、このブログで紹介したことがあるが、浅草で昭和歌謡ショーを楽しませてくれるショーレストランである。

以前は「シャボン玉ホリデー」ザ・ピーナッツを絶賛したが、現在は「キャンディーズ微笑返し」編である。虎姫一座が踊りながら歌う「年下の男の子」を、とんでもない年上の中年の男の子が拍手喝采。当時を懐かしむオヤジ達には堪らない演出である。

ここの客層も少しずつ変化している。「虎姫一座」は当初、エノケン、笠木シズコの昭和初期ファンから、1950年代、1970年代へと戦略的にターゲットをシフトしている。TV業界の懐メロ番組も同様で、今は50代以上へと変化している。

当時、爆発的人気の「キャンディーズ」は、アイドルファンを大学生まで拡大し、ヒット曲を連発した。虎姫一座で知ったのだが、解散宣言後、ランちゃん、スーちゃんの後押しで、ミキちゃんがセンターをつとめた曲「わな」の誕生エピソードも3人の絆を感じる。

最後のシングル「微笑返し」は、楽譜初見でリハなしという実力勝負で、見事な出来栄えと惜別するスタッフ一同は涙、涙の収録だったそうだ。

3人は前もって絶頂期での解散を決めていて、その人柄と、わずか4年半の生き様も潔く、いまだに多くのファンを魅了し続けている。そのキャンディースが解散して40年が経つ。1978年昭和53年4月、彼女達は惜しまれながら「普通の女の子」に戻っていった。

楽しく迎える老後の世界


私は当時大学4年の卒業旅行の「合歓の里」で、キャンディーズの解散コンサートの合宿に出くわした記憶が鮮明だ。そこから会社員人生が始まったが、案の定、仕事漬けとなり、完全に浮世の世界とは隔離され、芸能関係は無知となっていった。

36年の激動のカネボウ時代を経て、現在は成長著しい「フュージョン株」で充実の41年目を迎えている。優秀な社員たちからも優しく敬老?頂き、幸せ者だと感謝している。

皆さんにとっても重要なシニア市場、東京オリンピックの2020年には65歳以上の33%が一人住まいとなってしまい、2025年には国民の3分の一が65歳以上で、75歳以上は五分の一になる。これは人類史上経験のない「超高齢化社会」に突入することになるのだ。

楽しい超高齢化社会に向け努力すべきは、以前にも述べた「今日、行くところがある・きょういく」と「今日、用事がある・きょうよう」への探求心と、その実現なんだな。

昭和53年風景と岐阜配属時代








2018年3月17日土曜日

昭和のにおい

平昌冬季オリンピックでは、開催国のパワーを世界が評価する事を痛感した。それは、東京オリンピックの責任と期待に繋がる。我々が、開催国としてのプレッシャーを感じることは悪いことではない。

日本の復興を世界が認知した1964年東京オリンピック。昭和39年のことである。私は小学3年。裸足のランナー・エチオピアのアベベや、柔道無差別級・オランダのへーシングが優勝したのは今でも覚えている。日本はレスリング、柔道、体操などの大活躍で29個のメダルを獲得してソ連、米国に続き世界3位の獲得数を誇った。

次の大阪の日本万国博覧会が1970年(昭和45年)中学3年の修学旅行が万博だった。長蛇の列の米国館「月の石」を諦め、太陽の塔で暑くて座り込んでいた。6ヶ月で643万人の来場者と、建造物とインフラ整備は「日本ここにあり」と誇らしかった思い出でもある。

男前で楽しかった昭和時代


ツギハギが、新品に替わる高度成長の大量消費時代から、オイルショックで「天然資源は有限」を実感。ファミコンは子どもの娯楽を大転換させ、今までの価値観を失うバブル期。それも土地神話崩壊と共に泡と消え、不景気の厳しい時代に突入。昭和後期は庶民も企業も、激動の時代を乗り越えてきた。

子ども達にこんな話をすると、興味深々で質問攻めにあう。教科書の世界を体感した「生きた化石」を見る眼差しは、少し複雑だが案外嬉しそうな自分もいる。

子ども達には、「昭和言葉」も意味不明らしく、えもんかけ・ズック・背広・ちり紙などは?死語だそう。私が『「背広」を「えもんかけ」に掛けて「コールテン」の「ズボン」と「チョッキ」を羽織って「床屋」に行く』と話しても、平成生まれには全く通じないので要注意。これに違和感ない方は、私と同じ昭和のにおいだ。

今は平成30年。人口25%の31歳未満の方は昭和を知らない。まさに「昭和は遠くなりにけり」である。のんびり、おおらかで「向こう三軒両隣り」は親戚同様で、不便を不便とも感じない時代であった。

昭和時代の、手紙・固定電話・集金・ノートにメモから、スマホ・PC・電子化・AIなど、ツールと仕組みは劇的に進歩したが、不思議と日々の忙しさや煩雑さは変わらない。技術の進歩と効率化の追求は、かえって業務を拡大させている。

多様性と個人を重んじる社会では、管理者に従来のマネジメント以上の緻密さと柔軟性を必要とさせる。その為にも外せないのは「あなたに従う・あなたの為に」と思わせる人間的魅力と、強いリーダーシップが前提となることだ。昔から不変なこと。

「あたりまえだの」苦楽化(クラッカー)は、昭和も今も、判断・同意・承認は「人」が「人」にするしかない。伝統と革新「不易流行」は「人が根っ子」で成り立つのだ。

昭和の良き思い出、古っ。










2013年12月9日月曜日

「昭和を懐かしみ、浅草でナイトフィーバー!」 

今、私のプチブームに「懐かし昭和」がある。巷でも東京五輪、三億円事件、昭和グッズなどよく取り上げられている。マイブームの発端は「三丁目の夕日」の映画だ。この映画、第3部まで製作されたほど人気があったようで、懐かしく楽しませて頂いた。
原作の漫画「三丁目の夕日」(作・西岸良平)は私も読者の一人だっただけに尚更である。その後、テレビ放映された映画を観ていた我が家の子どもたちにも評判が良かったのだ。確かに、内容的には昭和時代を全く知らない平成世代の人々にも受ける内容でもあるが、時代背景にもなる「向こう三軒両隣」という濃密な地域の繋がりや、「三種の神器」など理解不可能と思っていたので、少々驚いてしまった。
生活環境は異なっても、熱気あふれる恋愛物語や人情劇は世代を超えて共感するのだ。

団塊世代が「昭和」にひたる

そんな最中、ちょうど一昨年になるが、お取引先様に誘われて浅草ROXにあるコシダカシアターという劇場に出かけた。ここでは「シャボン玉だよ!牛乳石鹸!!」が上演されている。ファミリーマートプレゼンツで、株式会社アミューズ「虎姫一座」のメンバーが歌と踊りを楽しませてくれている。
昭和28年テレビが登場、街頭テレビから一挙に家庭に普及していった昭和45年の万国博覧会あたりの時代背景を、映像とともに振り返りながら、当時大人気のテレビ番組「ザ・ピーナッツのシャボン玉ホリデー」を再現していく、という内容のショーで、かなり完成度も高く優れたものである。


このショー、お客様がお客様を呼び、今でも、連日満員の盛況ぶりである。私が行った日も「団塊世代」を中心とした人々(今なお元気な元若者たち)で一杯であった。
19時開演の1時間前から1杯飲んでほろ酔い気分のお客様も多く、すでにテンションマックスの気配である。
「シャボン玉~」と曲が流れ出すと、皆さん一緒に口ずさみ始める。
昨日のことは忘れるくせに、あの頃の歌は覚えていて、歌詞がスラスラと出てくるから不思議だ。
懐かしのテレビCMソングコーナーというのもあって、静岡・伊東のホテルやカステラの老舗のCMソングは、全国ネットで流れたのだろう、知っている方が多いのにも驚いた。日曜洋画劇場コーナーなど面白企画が満載で、とにかくお客様を飽きさせない。
後半のザ・ピーナッツソングコーナーになると「恋のフーガ」や「銀色の道」など観客総立ちになっての大合唱であった。

出演している「虎姫一座」の面々がまた素晴らしい。若い世代のメンバーながら昭和歌謡を覚え、積み重なる練習を積んで、ショーのクオリティ―の高さに感動し、ひたむきに無我夢中で歌い踊る姿に、私はいっぺんで虜になってしまった。勢いあまり、その場で「虎姫一座ファンクラブ」に加入した。以来2年ほど通い詰めている。


その昭和歌謡レヴュー・ショーがこの夏、何と「1000回記念公演」を迎えた。もちろん観賞させて頂いたが、懐かしのグループサウンズを取り入れ、自分たちの生演奏で構成された企画であった。
当時、ビートルズやフォークに魅了されバンドの真似事をしていた私は、いきなりモンキーズの「デイドリーム」が始まると懐かしくて泣きそうになった。
一口に1000回というが、大変なことである。多くのファンが昭和を懐かしみ、虎姫一座の活躍に感激し、それを同世代の人たちに広めてくれた結果であろう。
「虎姫一座」のメンバーは、1000回公演に向けて昭和の文化や風俗を学び、当時の流行歌を何度も聞いて練習したらしい。そこで感じたことは、当時の歌が持つ「新鮮さ」や「魅力」だったと語っていた。

この劇場では、昼間の演目が「エノケン、笠置のヒットソングレヴュー」。こちらも「虎姫一座」が頑張っていて、シニアの皆さんで大盛況のようだ。
コシダカシアター劇場から出てくる満面笑顔のおじさん、おばさんを見ていると、浅草は「昭和文化」復興の聖地のような気がする。いささか大袈裟だろうか。

心に刻まれたことを大切にしたい

ここで、「昭和」を自慢するつもりはないが、確かにあのころはエネルギッシュで皆が同じベクトルだった気がする。2020年の東京オリンピック招致活動と決定に沸き返る反応は、まさにあのころを彷彿とさせる。
ネットや携帯電話もなくて、手紙と電話のやり取りこそが、憧れの彼女との繋がりの時代。
父親と先生が何よりも怖かった時代。町内の事は何でも知っている「名物おばさん」に怒られたことは1度や2度ではない。ケーキやジュースは特別な日の食べ物だった。
思い返すと今の自分にとって、全ての経験に価値があって貴重な出来事になっている。

私だけかもしれないが、単純な思考回路と価値観が幅を利かせていて、物事がシンプルで、大人たちも今ほど疲れていなかった気がする。
今は、一人一人の多様性を考慮するのが前提で、それぞれが複雑で価値観も異なるので、それに合わせ、慎重で気を遣うことが多い。あらゆる局面を想定して対処しなければならないから大変だ

身近なところでは、子どもの運動会の短距離走では決して順位をつけないし、運動会見学に来た家のひと(父兄ではなく保護者と呼ぶ)が持参したお昼のお弁当を食べることも禁止する学校も多い。
走る力の順位つけは「差別」につながる危険があるし、昼食も持参できない場合や保護者が来られない子どもに配慮するのも当たり前なのだ。
そうなると他にも多くの配慮が出てくる。たとえば息子の小学校では「学級委員長」が存在しない。誰もが均等に役割別の委員に属していて平等なのだ。一人一つの委員なので、兼務はない。各委員は団体活動の進行のためにあり、そこに任せるので、全体が見えにくく責任が分散される。
クラスを一つの方向に統率するのが大変だろうな、と心配してしまう。
少し寂しい感じだが、公平で差別を根絶することが最優先、となれば仕方ない気もする。

「虎姫一座」の熱心なリピーターの私は、その後もお取引先様や若い人たちとともに「虎姫一座」の元気な姿を見に行くが、皆さん喜んで頂いている。若い人からは「パワフルですね」とか「なんとなく懐かしい匂いがする」などの反応がある。


一つの歌が持つ「力」や「重さ」を感じるようだ。ラジオとテレビしか娯楽がない時代は、一つの流行歌が、ロングランで影響力を持っていた。我々の心に深く刻まれている。当時の曲を耳にして口ずさむことができるのはその証拠だ。
純粋にいろんなことに「夢中」になれた時代だったかもしれない。

「明日に好奇心」 忘れないように……

これからを生き抜く子どもたちに、昭和の文化や、己を手本にせよ、などとは決して言わない。私のような団塊世代の末席組は、我々の親たちの世代が築いた激動の時代に、便乗しただけかもしれないからだ。
しかし、私はこの時代に培われた価値観を知ってほしい、と思う。
「戦後は遠くなりにけり」とはいえ、物質的には決して豊かとはいえず、まだまだ貧しい人も多くて、服はお兄ちゃんのお古でズボンにはつぎがあたっていた。近所のテレビや電話のある家にはよくお世話になったものだ。だが、誰もが差別とも思わず共存していた。
根っこにあるのは、頑張れば「そのうちきっと良くなっていく」と信じていたからだ。

今の若い人が、ゲーム感覚の人生を送る。メール以外にあまり会話をしない友達と、「この世の中混沌として不満だらけ」とラインの仲間と語る。
ニート生活に疲れ、夢もなく、満足の状態が分からずに「ゲーム・オーバー」といってネット仲間と死んでいくのでは、あまりに寂しい。

私は、父親として、いつまでも元気で希望に溢れた生き方を子どもたちに見せ続けたい。子どもたちに「この時代のお父さんってかっこよかったんだね」と、言わせるホットな存在でありたい。
そのためにも、大いに昔話を語り、エネルギーを発散することである。

私も「明日に好奇心」を忘れないためにも、ギターに再挑戦するつもりである。
定年後は「おやじバンド」復活だ。そして、「はとバス昭和浪漫紀行」や「浅草ROX・虎姫一座」など、懐かしい「昭和」イベントに子どもと一緒に出かけたい。

オヤジのフィーバーぶりで、今度はうちの子どもたちが「今どきの若い奴はなっとらん」といって奮闘する大人に成長してくれたら、最高である。