小学生の頃「自分は何処から来て、何処に行くのか」と考えたが答えは出なかった。誰もが抱く成長期の謎かと思っていたが、ウチの子どもには「考えたこともない」と一蹴された。
この疑問は人間の持つ「意識」から派生するが、我々は意識を感覚的にしか理解できない。小難しい話になるが、生物学的には生存に必要なエネルギーとの関連が深い。
もともと「意識」とは、生物が不足したエネルギーを補うために、移動する目的で備わってきた機能だと言われている。小さくシンプルな生物は、ただ食物を取り込むだけで「意識」は必要としないが、ヒトはそうはいかない。
言語を使い五感を駆使し良質な食物を求め、狩猟や農耕など集団意識を形成し、膨大な時をかけ意識と感情を複雑化させてきた。
言語の進化は同時に「嫉妬・優劣・差別」などの感情も育て、意識的に嘘をつく生物にもなった。これが無毛な争いの始まりでもある。
突き詰めると、人類の文明や産業などあらゆる活動はエネルギーを巡る歴史に他ならない。
悩み多き者、肩の力を抜いて。
要するに「ヒト」は面倒くさくて貧欲で厄介な存在なのだ。故に「悩み多き者」になる。
自分が存在する答えなど無いと思えば「なるようになれ」の達観と、飾った世界に流されず今日を精一杯生きる一途さも好きになれる。
ところが悩む時は、簡単に割り切れない迷路にいる。その時こそ「まっいいか」のノリが、乗り越える術になる事を、頭の隅に留めるのが大切。
江戸時代の佐賀鍋島藩士で「葉隠」で有名な「山本常朝」は、武士道とは死ぬことと見つけたりと唱えた一方、短い人生、好きな事で暮らし嫌な事をするのは愚かなり。と今時の若者が曲解するような名言を残している。
先日、友人から「葉隠」の真理を教えられ、誤解に気づいた。死ぬことなりとは「決死の観念」で己の死と向き合い、今を死人と解釈すれば、何も怖い物はなく「死ぬこと」を超える苦しみなどないと達観して、今の辛苦を乗り越えるそうな。
人間の一生は、誠にわずかな事なり。
好いた事をして暮らすべきなり。
夢の間の世の中に、好かぬ事ばかりして
苦しみて暮らすは愚かな事なり。
好きな事だけは魅力だが、決して好き勝手に過ごすことではない。死ぬ以外は全て楽勝だから「〜せねばならない」の義務化など些細なこと。まさに人生を楽しく過ごすコツである。
しかし私は、やるべき事が億劫になる。ここは「明日への好奇心」になる関心事を探し「命までは取られない」の気楽さを身につける事だ。
いや、こうして愚痴ること自体が、恵まれた環境だ。もし、今日やる事も好奇心も無くしたら、生きる目的を失い、エネルギー補充だけの「意識不要」の生き様しか残らないのは悲しい。
そう考えると「文句を言ってるうちが華」であり「言われるうちも華」なのである。そして、しんどい時は「まっ、いっか」で笑うとしよう。