2015年12月14日月曜日

2015年を振り返ると。

2015年もあと僅かとなり、自戒を込めてこの1年で感じたこと、決意したことを棚卸ししてみたい。

当社の社長、佐々木が今年の紅白歌合戦会場客に応募したが、残念ながら1,000名枠から漏れた。応募人数100万人のNHKも凄いが、抽選漏れの返信DMを分析して、市場まで考察する感覚と、何より大晦日に渋谷公会堂に行こうとする社長はもっと凄い。

他にも年の瀬の出来事として「今年の10大ニュース」や「流行語大賞」の話題がでると「もう今年も終わりか、早いものだな」と皆さん口にするが、今年の私は少し違う。

田辺の2015年は例年より長く感じた。以前紹介した「ジャネーの法則」。生涯で、ある時季の時間の心理的長さを論じた法則だが、長さの感じ方は年齢に反比例する。つまり5才の子どもの1年は、人生の5分の1に相当するので、経験が浅く日々の出来事が新鮮である分、時の経つのが遅く感じる。逆に歳を重ねると、過去の経験が多い分だけ「こんなものだな」と判断してしまい、流していくので時の経つのが早く感じるのだ。


しかし私の場合、カネボウを引退し、6月からフュージョン(株)の新入社員となり、毎日が好奇心旺盛で濃密な時間を過ごせているので、昨年と違い長い時間を感じている訳だ。

先日出かけたカネボウOB会で、75才を迎えた先輩が中締め挨拶で、我々の世代に必要なことは、「きょういく」と「きょうよう」と言っていた。よく聞くと、何と「教育」と「教養」ではなく「今日行くところがある」と「今日用事がある」の意味であった。・・そうなんだ、と唸ってしまった。こうして毎日忙しく動き回れることが幸せであり、出来れば生涯現役を目指したいものである。

人生時計

人生を1日24時間に例えると、あなたは今何時?という「人生時計」をご存知だろうか。
自分の生年月から、現在の自分が1日の何時に相当するか、というお遊びだが、これが結構考えさせられてしまう。
因みに私の場合、1955年4月生まれは「午後6時13分」。一般的には仕事が一段落し、もう一仕事するか家に帰るか、飲み会かといったところである。その後も家に帰り風呂に入り、寝る前に趣味の時間も過ごしたい、という微妙な時間である。

中学2年の息子は「午前5時前」で高校3年の娘が「午前5時01分」。2人共「今日も1日頑張るぞ」と元気に飛び起き、限りない可能性に向かって始動開始の時間だ。
思わず「これから始まるのだ、失敗など恐れるな」と子どもたちに叫びたくなる。
45才の家内は「午後12時33分」。午後に向けてもう一仕事するか、新しい夢に向かって挑戦もできる、といった変化を求める時間だろうか。



午後6時13分の私は、フュージョン(株)で新しい仕事に挑戦しているので、まだまだ家路につくには早すぎる。先日も、お取引先様から会社のコーポレートサイトとEC構築のお話を頂戴した。先方様の会社方針、沿革、事業紹介、採用案内などECサイトなどお手伝いにワクワクしている。現在、スタッフと進めているが、学ぶこと多く新鮮な毎日である。

新鮮なのは、フュージョンの社員が、1980年代から90年代生まれの方々。彼らの人生時計は「午前10時前」で、驚くほど早い時間だ。午後の仕事に向けて「やること」も「学ぶこと」も「楽しむこと」も山積みだが、それは無限の可能性への挑戦があるということだ。今以上に臆することなく躊躇うことなく、大暴れして欲しい。


当たり前だが、この世の中、誰でも1日24時間。目覚めて、活動し、何かをなして、何かを掴んで、積み上げる。そして伝承していく。そして、気がついて夕暮れ過ぎて暗くなったら、我が家に戻り、ほっと一息。少しの満足と安堵を枕にして、眠りにつくのだ。

その時は、大好きな「坂村真民」の言葉を噛みしめたい。

         花は一瞬にして 咲くのではない。

         大地から 芽から出て 葉をつくり、

         葉を繁らせ 成長して つぼみをつくり

         花を咲かせ 実をつくっていく。

         花は一瞬にして 咲くのではない。

         花は一筋に 咲くのだ。

過ぐる2015年を振り返り、改めて皆様に感謝申し上げ、来る2016年への期待で胸が膨らむ。皆様の人生時計が、これからの希望に満ちていることを心より祈念しております。


知識融合化法認定法人フュージョン株式会社
 東京オフィス長 田辺志保

2015年11月30日月曜日

命のはかなさを乗り越えて

年の瀬に訃報が届いた。驚きとショックで暫く呆然とした。


大げさでなく日本にとっても大きな損失である。2013年10月のブログで紹介した、
「漢字語源研究者・刻字家の高橋先生に教えていただいたこと」前編・後編で、ご記憶の方もあるかもしれないが、私の大切な友人で漢字の師匠でもある、高橋政巳先生が亡くなられたのだ。
8年前、以前の会社の東北地区責任者時代に出会い「人生の宝」とさせていただいた方である。




福島・喜多方を愛し、奥様を愛し、漢字を愛した高橋先生の足跡はあまりに大きい。
古代中国の漢字の研究の第一人者で、刻字家として古代文字の語源をひも解き、それをデザインし「書」と「刻字」に表す希少な方である。
詳細は省くが、ニューヨークでも個展を開かれ、世界に漢字の魅力を伝えた功績も大きいが、私個人は、それぞれの方が持つ名前の「書」が凄いと思っている。
名前の語源を読み取り、自分の名前が己に背負う意味を教えてくれる。文字通り「名は体を表す」だ。自分の名前が古代文字で書かれた「書」は、感激すること間違いない。
今まで多くの方に高橋先生の名前の書を差し上げて、どれだけ喜ばれただろうか。私は、その喜びを深めたくて、高橋先生の解説入りの「書」が届く都度、電話をかけて、名前の語源をもっと深掘りしたくて質問攻めにした。先生はいつでも詳しく丁寧にご説明くださり、いつの間にか私を解説者としても育成戴いた。

我が師・高橋先生は、東京進出のお誘いも断り、故郷喜多方を「漢字の街」として広めることに尽力し続け、喜多方から離れることはなかった。
漢字の語源を語る先生のもとには、全国各地の小学校からも講演が殺到し、時間の許す限り子どもたちの漢字教育にも取り組んでいた。講演で何日も家を空けると、いつも家に帰りたくて仕方なかったようで、「郷土愛ですね」と尋ねたら、「実は、うちの家内に会えないことが理由です」と、信子夫人に会えない寂しさを私にしみじみ語ったことがある。
臆面もなく、奥様のノロケ話をされる先生の一途さと素直さが新鮮で、自分も見習いたいと反省したものだ。



團十郎さんと高橋先生の思い出


「人の命のはかなさを乗り越えて」と題して2013年2月のブログで、敬愛する市川團十郎さんとの別れを嘆いた。舞台おしろいの縁でお会いして親しくさせて頂き、再会をお約束した矢先、公演中の京都で入院され、そのまま帰らぬ人となってしまった。
実は、私は密かに、團十郎さんのお孫さんで海老蔵さんのご長男「勸玄」くんの名前の書を、高橋先生にお願いしていて、團十郎さんにお渡しするのを楽しみにしていた。しかし残念ながら、勸玄くんを待ち焦がれていた團十郎さんにお見せすることは叶わなかった。
高橋先生がお書きになった「勸玄の書」は、弟子が師を超えるのたとえ「青は藍より出でて、藍より青し」の言葉を込められて、藍の染料で書き上げていただいた先生の力作である。
團十郎さんのご自宅にお伺いし、「勸玄」の語源解説を交えながらお渡しすると團十郎夫人と海老蔵夫人は大層喜ばれて、後日ご丁寧にお礼のお手紙を頂戴した。



この時の思い出を、高橋先生と一献傾けて報告する約束も、私の還暦退社と就職のご報告も出来ぬまま、あまりに早く逝ってしまった。こうやって、いくら書いても、いくら語り尽くしても先生の笑顔を見ることは叶わぬのだ。残念で残念で堪らない。

そして、今私が一番案ずるのは、残された信子夫人である。固い絆のお二人だっただけにお悲しみははかり知れず、ただただご愁傷を思うだけである。 ご主人の分までも元気を出されて、一日も早く立ち直ってくださることを願うばかりである。

今頃、私の果たせなかった「勸玄の書」の思い出を、天上で團十郎さんと高橋先生とで一献傾けて盛り上がっているに違いない。もう少し先ですが、何れ私も参加しますから。

そんな楽しい想像を巡らせて、笑顔で別れたいと思う。

高橋先生、さようなら。

知識融合化法認定法人フュージョン株式会社
 東京オフィス長 田辺志保


漢字語源研究者・刻字家の高橋先生に教えていただいたこと。(前編)(後編)
ひとの「命のはかなさ」を乗り越えて。

                                              

2015年11月13日金曜日

ひと時の自由人の思い出

私がフュージョンに勤め始めるまでの僅かな期間だが、初めての自由人を謳歌した。
貴重で充実した時間であり、色々な面白体験もできた。平日、通勤ラッシュ以外の時間帯にラフな格好で電車に乗る。好きなときに散歩をする。絵を描く。平日の午後、海を眺めながら公園のベンチに座る。信じられないほどマッタリできて不思議であった。

正直な感想は、身体が動くうちは「隠居生活も悪くないが長くは続かないなあ」ということと、家内を眺めて「専業主婦も大変なんだな」という気持ちが持てたことである。

家内の朝は忙しい。子どもたちを叩き起こし朝食を与え、娘の弁当、息子の支度と嵐のように過ぎ去ると、次は大量の洗濯物だ。息子は毎日2着の柔道着を汗まみれにする。道着は汗と皮膚ズレで色が変わるので、硬いブラシで襟・背中・袖の汚れを落とし、一晩浸け置きしてから翌日洗濯機に入れる。衣類用漂白剤などダメで、キッチンハイターで道着をブラッシングする。これは深夜の重労働である。明け方から洗濯機を回し続け、干し終えると次は、掃除機が動き出す。
いよいよ私はお邪魔虫なので、楽しい散歩に出かける。



近所の海岸公園には、ご年配者の散歩、リタイヤらしき方のジョッキング、幼稚園児と保母さんのお遊び時間などいたるところに人がいる。公園併設のゲートゴルフ場は、連日満員の盛況ぶりで、皆さんマイクラブ持参である。
我が街を、こんなにゆっくり観察したことがなかったので、マンションが増え、公園が変わり、施設も増えて、それに伴い「人の景色」まで様変わりしていた事に驚いた。

クレーン重機がある街

以前、建築関係の方が教えてくれたのだが、地域の活気度と成長する街は、ぱっと眺めると判るらしい。そのコツは、訪れた街の駅や最寄りのビルから景色を眺めて、まず「移動式クレーン重機」の数を数えるらしい。
大きな建造物や高層マンション建設には、巨大クレーン重機は不可欠だ。クレーン重機には、タイヤ、キャタピラ式など大小あるが、どれも高額な特殊車両だ。当然、操作する運転士も希少価値である。建築会社の自前車両もあるが、多くは専門のレンタル会社から拝借するが、数に限りがあるので、巨大建造物の工事が始まると、国内の移動式クレーン重機と専門家が集結するのだ。
つまり、クレーン重機の種類と数で、工事の規模や完成イメージが判るらしいのだ。
そして、驚くなかれ、希少価値の副産物なのか、移動式クレーン重機マニアが存在しており「てふてふクレーン」というクレーン重機サイトがあるのだ。
贔屓のクレーン車が、どこそこで活躍している、といった書き込みや、クレーンの勇姿を捉えた写真の投稿コーナーまであって、クレーン追っかけマニアには堪らないようだ。



散歩コースの海岸公園も増設のため大きなクレーン重機が4台稼働している。他にも小さなクレーン車まで合わせると、新浦安地区に相当数が集結している。これは4年前の東日本大震災の地下の液状化現象で大打撃を受けたこの街の復興の一環だ。
近所の道路と下水管工事が、この春ようやく始まったので、暫くはクレーン車に目が離せない。
これをお読みの方も、クレーン車を見かけたらどんな変化が訪れるかを想定しながら眺めるのも楽しいかもしれない。

20年後の自分を考える

街の様相は40年周期と云われている。新興住宅地にマイホームを購入した若いご夫婦たちも、40年経つと高齢者に変わる。子どもの泣き声は鳴りを潜め、老夫婦と暮らすペットの鳴き声に代わる。新設の小学校は、先を見据えて老人ホームに転用できる造りになっているので、そこに子どもはいない。先を読む大型スーパーは、40年の減価償却で終わる出店計画になっている。

街の変化と人の変化は一体だ。残念だが、必ずどちらも朽ち果てて新しい時代を作り変えていく。
人も建物も形は変われど「不易流行」の言葉通り、いつまでも変えてはいけないことは、世代を超えても、街も人も「楽しく、いきいきと幸せを謳歌」するためにある、ということ。
当然だが、我が家も20年後は大変化するはずだ。運良く生きていても「80才の老人ボケ」の私と、元気いっぱいの笑顔の家内の姿が見える。子どもたちはそれぞれ独立して、大切な家族を守っている。どこで暮らしているのだろうか。
自分がそうであったように、子どもは「親」や「街」に縛られず自由に生きることだ。

子ども 叱るな 来た道じゃ
年寄り 怒るな 行く道じゃ

この先20年の道のりを、楽しく暮らすコツは、いかなる時も相手の立場で考えて、自ら歩む前向きエンジン「感謝」と「熱意」のアクセルを踏み続け、なるべく「愚痴」や「期待」「諦め」といった後ろ向きブレーキを掛けずに走ることだ。

そして、一番避けたいことは「整備不良」で走れなくなること。健康第一!これしかないか。

                                知識融合化法認定法人フュージョン株式会社
 東京オフィス長 田辺志保

2015年9月25日金曜日

新たな「田辺志保のひとりがたり」



縁あって、私を受け入れてくださる会社にめぐり合い、6月から新入社員となった。
札幌に本社を構えるダイレクトマーケティングの頭脳集団の会社である。正式な名称は
FUSION知識融合化法認定法人「フュージョン株式会社」という。ビッグデータの管理分析から
ダイレクトメール制作まで手がけるダイレクトマーケティング全般を業務としている。
私は、麹町の東京オフィスに勤務している。

カネボウ人生37年、メーカーとして化粧品の開発・製造、そして販売会社の流通営業ではお取引先の小売業様への拡販活動をしてきた。顧客データ分析や市場調査・分析、販売促進策の企画運営など、CRM全般は経験がある。しかし、自前以外にも社内担当者が外部業者の協力を得て展開していたし、私自身実務もせずスタッフにお任せしていた。ましてや退社前までは売り上げ・利益・決算など経営が主な業務であったので、フュージョン業務は門外漢といっても良い。
当然、田辺は見習い生である。そもそも社内言語の習得中の身である。
まさに60の手習い?である。

会社に慣れてくると、この会社が取引先様から高い評価と信頼を勝ち得ていることが判ってきた。
とにかく社員が優秀で、よく働くので当然だと思う。

若さ溢れる社員に囲まれ、不思議と心地よい懐かしさを感じている。
何故かな?と考えたら、まず社員一人ひとりが一生懸命であること。若い彼らが一心不乱に業務に打ち込む姿は、その昔カネボウ社員が
「いつか化粧品業界のナンバーワンになるぞ!」と唱え打倒Sで戦ってきた姿と重なるのだ。

「お取引先様のために」の使命感をもち、絶えず新たな挑戦をする。という開拓者精神も魅力のひとつだ。ゆえに向上心が高いので、私も日々刺激的で新鮮な毎日を送らせていただいている。

ついでに、心配で目が離せない我が家の面々も相変わらず元気である。
娘は大学進学に向け、奮闘中だ。大学の付属校では2年生から理系クラスにいるのだが、目指す学部の推薦はそう簡単ではなさそうだ。
この9月末に全国付属校生の統一試験があり、そこで学部推薦が決まるようだ。学校も付属校自体の学力レベルも試されるので、先生も生徒も必死である。

柔道一直線の息子は、この夏、中学柔道部の憧れ「全国中学柔道函館大会」を目指してきたが、残念ながら千葉県大会・個人戦73K級は、ベスト4で終わった。団体戦こそ、と市川七中柔道部レギュラーは優勝を狙ったが、大方の予想を裏切り3位で終わった。涙も枯れた選手たちは「来年の新潟全中に出場!」を合言葉に、3年生引退後の1.2年生は練習を始めた。
負け犬の遠吠えかもしれないが、優勝校が頂点を守るプレッシャーより、失うものがない市川七中は、トップを狙う挑戦者でいられる分だけ気持ち的に有利である。



仕事も家族も挑戦者たれ!

「上には上がいる」を知る者は、謙虚で貪欲なので成長しやすい。ひたすら上を目指し、人が寝ている時間まで鍛錬を重ね、一日一日を悔いなく過ごすしかないのだから雑念や不安がない。
来月から始まる新人戦で答えは出る。見守る親も目が離せない。

これは、会社も仕事もプライベートも同様である。トップに立ったときや目的達成のときは要注意である。喜びと同時に「自信」と「慢心」をうまく手玉に取り、継続達成のプレッシャーや不安感に勝たねばならない。
チーム単位の勝者の場合は「当事者意識の希薄化と油断」は各自に分散するので、チームリーダーのマネジメントが重要になる。

フュージョン(株)の前途を担う若い社員が、挑戦者としての意識を常に持ち、一丸となって精進すれば、業界のリーディングカンパニーは目の前だ。
私が、今やるべきは、新入社員として謙虚で貪欲さを忘れず、一営業マンとして成果を出し、己のいままでの拙い経験や知見が皆様のお役に立てる。を無常の喜びとして日々過ごすことである。
結構、高みの目標だが、還暦オヤジの新たな挑戦である。燃える。



坂村真民「念ずれば花開く」の詩集のひとつ「今」が心に響くなあ。

2015年3月11日水曜日

「田辺志保のひとりがたり」を振り返る

201212月、カネボウコスミリオン(株)のホームページ刷新時に開設した社長ブログ「田辺志保のひとりがたり」。今回が最終回となりました。
4月の還暦を境にカネボウを引退することになったからである。いつまでも居座るより、後に続く新しい流れが肝要!との思いご理解頂きたいと思っている。3月11日付けでカネボウコスミリオン(株)に加瀬敬広社長を迎えた。

2年前、ブログ開設時を振り返ると、当初のタイトルは「海坊主のひとりがたり」だった。が、広報のウェブパトロールの方から「『海坊主』は不漁を招く妖怪の一種で漁師が忌み嫌うので、社長ブログには不適切では」と指摘を受けた。そもそも私の風貌と洒落の意味合いで「海坊主」としたが、極めて真面目な指摘に内心「細かいな~」と思ったが社長ブログである、公のブログとしての考え方もあると思い直してタイトルを考えた。

次に選んだのが「志保のひとりがたり」。ところが「志保」が女性と勘違いされて怪しい。で落ち着いたのが「田辺志保のひとりがたり」である。社長ブログとなると何かと気を遣うものである。

ブログ開設以降、社員をはじめ多くの方にお世話になった。文章を書くにあたっては、編集の仕事に携わる知人から「何を書くかを決めたら、書かないことを決めること」とアドバイスされた。私は講演で横道に逸れまくるだけに、身に染みるご指摘であった。書いているうちに何倍もの原稿に膨れ上がり、一貫性が無くなり、削除した文章は半端な量でなかった時もあった。

文章中の言葉の使い方にも、多方面からご指摘を受け、読み手の気持ちを考えて表現を変えたことも多々ある。例えば「子供」。子は「親の供」ではないから「子ども」を使用しよう、と。一人の人格を持つ人として扱うことが大切、「子供」だとご不満をもつ方がいるかもしれない。また、化粧品業界の表現にしても、ファンデーションの色を一昔前「自然な肌色」としたこともあったが、今ではもっての外。グローバル世界、多くの人種を考えると「自然な肌色」など存在しないのだ。

こうしたワードの再考、置き換えなどをしつつ、己の気持ちに正直に書き綴った。たいした経験ではないが、私なりの人生体験を通して得たことを、良いも悪いも全て晒し、読んだ方なりに何かを感じれば、と紹介してきた。有難いことにお取引先様にも「田辺志保のひとりがたり」の読者がいて、応援していただいた。息子の柔道話や、家内の自慢や、会社の実情など、オネスト(!?)すぎて、「大丈夫?」と心配の声も届いた。ただ、公人を意識し、表現は真面目に多少硬くなったが、内容は自由に書いてきたつもりである。
海坊主の指摘以降、このブログを容認してくれた会社の懐の深さと、度量に感謝している。

思えば、2011年4月にカネボウコスミリオンにきて4年間、さかのぼればカネボウ入社以来37年間、まさに激動のカネボウ時代を過ごしてきた。人を育てる社風のカネボウで学んだことや、カネボウが平坦な歩みでなかったことも、普通のサラリーマンでは味わえない経験もさせて頂いた。しかし、これが結果的に計り知れない自己の成長に繋がったことは、間違いない。

そんな想いが凝縮されて「社長ブログ」のテーマは「出会いは人生の宝」と即決した。
手前味噌だが、読んでいただいた方からは「良かったよ」と激励されたりご指摘も頂戴したりと多くの反応に触れることもできて、満足している。
そして何より、自分自身が楽しませて頂いたことに心底感謝している。

カネボウ引退にあたり最後に思うこと、それはすべての方に共通する避けられない事実。ヒトは一人で「この世に生まれ」、一人で「この世を去る」。人生、紆余曲折ある中、この事実を正面から受け止め、一人立ちできるまでに育ててくれた方々の御恩に報い、残された限りある人生を悔いのないように過ごすことが一番大切なことではないだろうか。その為には「出会いは人生の宝」を忘れず、毎日を精一杯過ごしたい。
今後は全く違う分野に立ち位置を変えるが、自分らしさを忘れず次なるステージに挑戦し、努力を重ねて奮闘するつもりだ。個人的には機を見てブログ「田辺志保のひとりがたり」を新たに再開出来ればと考えている。多少なりともご関心をお持ちの方にはウォッチ頂けると嬉しい。

カネボウコスミリオンは、後任の加瀬社長が更なる飛躍と成長を実現するのご安心頂きたい。



これまでのご支援とご厚情に、深く、深く感謝申し上げ、皆様の益々のご活躍とご健勝を心より祈念申し上げます。本当に有難うございました。


田辺 志保

2015年2月16日月曜日

引き継いだ旧鐘紡の「カネボウストッキング」が快進撃!

花王グループは、1~12月の決算である。わが社も2014年度は昨年12月で終了したが、お陰様で、計画以上の売上と利益を達成させて頂いた。社長就任以来4年間、従業員の総力で増収増益を続けている。本当にありがたいことである。お取引先様とお客様のご愛顧の賜物と、深く感謝している。今後も「良きものづくり」で更にご恩返ししたいと思っている。

そうしたわが社の実績を支える商品の一つに、女性の必需品であるパンティストッキング(パンスト)がある。コスミリオンがパンスト?と思われるかもしれないが、カネボウ化粧品の販売会社を通してカネボウ取引先様に美装品カテゴリー「カネボウエクセレンス」というブランド名で展開頂いているパンストである。これが信じられないほど売れていて、今やお化けブランドになってきた。

実は、この「エクセレンス」は旧鐘紡時代の中核であった繊維事業のひとつ「カネボウストッキング」。その後傘下に収めた豊田通商と当社とで共同開発、生産している商品である。



わが社が「エクセレンス」開発・生産を引き受けて4年。販売数は4倍近くまで拡大しあた。<DCYストッキング><タイツ80D><タイツ110D><ショートストッキング>の4カテゴリーで年々、愛用者が増え続け業界でも驚異的数字だと関係者から伺った。

カネボウ販売会社とお取引先様の販売力に脱帽である。そして、その高い販売力は、圧倒的に優れた品質だから叶うこと。手軽な価格もお客様の高いリピート率となって表れ、ドラッグ流通では専業メーカーを抑えトップシェアにまで育ってきた。



想定外の快進撃に、一昨年「何故こんなに売れるのか?」を解明するため、マーケティング調査をした。この種の調査は化粧品ではお手の物だが、繊維製品となると知見が無いので、調査法の一つである覆面での「消費者座談会」のフリートークはドキドキした。その結果が、品質、カネボウ名、パッケージ、価格のすべてが支持されている、という理想的なお応えを頂戴した。品質は「丈夫で綺麗」と絶賛された。

もともと繊維の鐘紡がオリジナル原糸を有しており、加えて織(おり)の技術も群を抜いているうえ、シンプルで真四角のパッケージと、化粧品のイメージを融合した自信作である。「良きものづくり」とは、そこに市場があり、競合に勝る商品力、タイミングと販売力が一致すると必ず売れる、という証明でもある。只、全てが揃うのは簡単なことではない。

わが社の主幹事業は化粧品のOEMであるが、お取引先様へのご要望や市場を見据えて、ストッキング以外の繊維品、化粧用具、雑貨など多くのメニューを増やしてきた。
その中には、当時総合メーカーの鐘紡が築いた知見や、技術の物も多く含まれている。

家庭品・化粧品の品質管理は熟知する花王・カネボウグループだが、繊維の品質検査、品質管理などの知見はなく、わが社の合言葉「可能性から発想する」の精神で「美装品」に取り組んできた。難産ゆえに、「エクセレンス」の成功は、嬉しくて仕方ない。

そして、この2月、新たにエクセレンス5つ目のカテゴリー、大型の新商品「カネボウエクセレンス<BEAUTY>」を投入した。化粧品メーカーらしく「履けるファンデーション・美脚メイクアップ」としたコスメティック発想で作りこんだパンティストッキングである。



レッグウエア業界(パンスト・タイツ類)の最大の市場である、オールサポート(ゾッキタイプ)市場に向けて、満を持しての発売である。

ゾッキタイプは伝線しやすいという課題と新たな付加価値を試行錯誤しながら時間をかけ、カネボウと豊田通商グループ(元カネボウストッキング事業)がタッグを組んで、新たに進化させたカネボウだけのオリジナル原糸と技術を開発。伝線しにくい「ノンラン設計」に加え「糸と編みのオリジナル設計」により、美しさと丈夫さを実現出来たと自負している。

私は繊維出身ではないが、いつしか「交編編み」とか、「デニール」の違いや「ハイゲージ設計」などと、口にするようになった。何とも感慨深い。少々おこがましいが、鐘紡の発明や技術をしっかりと受け継ぎ、カネボウコスミリオンで形を変えて、守り、大きく成長させることに深い感謝と喜びを感じる。と同時に、私は鐘紡人であることを実感する。

「エクセレンス<BEAUTY>」を市場に送り出すことは、大切なわが娘を世に送り出す思いだ。お取引先様と共に「製品」を生み、お取引先様に渡って「商品」となる。その商品をお客様が購入され、使用されて満足すると「愛用品」に変わる。そして、そのお客様がリピートしてくださった時に「私の逸品」に昇格すると思っている。

多くの女性たちから「私の逸品」とご評価を賜わることができれば、無上の喜びである。

田辺 志保


2015年2月2日月曜日

小うるささに磨きがかかりそう! 

私が今年、還暦を迎えることについてはすでに書いたが、それは4月。寒さ厳しい2月を越したらすぐである。ふり返れば、楽しいことも苦しいこともあっという間に過ぎたように思う。そんな中、目の前が真っ暗になるほど辛い時があった。2004年2月、信じていた会社が転覆した。

カネボウはそれまでの再建策である化粧品事業を花王に統合することを取りやめ、産業再生機構に、カネボウ化粧品を分社化して再建を委ねることになったのである。
産業再生機構の支援は、いわば国民の税金を投入するわけで、自立再生できぬと判断した会社への失意と無念さと、世間への申し訳なさが渦巻く思いであった。

私は現場の営業最前線でがむしゃらに仕事をしてきた、評価もされた。まして根っからカネボウが好きで、お取引先様も大好きで、どっぷり浸かり、会社の仲間と寝食を共にしてきた。それだけに、会社が産業再生機構入りしてしまい、私を引き立ててくれた経営陣も総退陣……。まさに「青天のへきれき」であり、ショックは計り知れないものであった。


家内に救われる

世の中には、挫折して、行き詰って、叱責、敗北……などによって気力を喪失したり、落ち込んだりする場面は多々ある。それが「己の至らなさ」から生じるのであれば納得もできる。しかし、この時は行き場のない悔しさで悶えていた。

産業再生機構入りすると、機構側の人たちが大挙押しかけてきた。MBA取得のエリートや、外資系の再生請負人たちが経営陣となり、既存メンバーのカネボウ側とで、カネボウ再生を模索し始めた。冒頭、彼らから「今までのカネボウの常識は、世間では非常識と認識してください」と言われた。それからは押して知るべし、こちらの課題をいくら説明しても理解してもらえない。特に流通責任者であった私とも意見の平行線が続き、現場の声より、机上のマニュアルを主張する機構側幹部との議論に疲れ切っていた。

そんな最中、夜中トイレに行くと「血の小便」が出た。もう会社にいることは限界かなと思った時でもあった。長期ローンを組んで自宅を購入したばかりだったが、それでも、折角手に入れたマイホームを手放して、もう実家に帰ろう、家族を連れて逃げ出そう、と思い詰めていた。

家内に「この家、手放して静岡に帰ろうか……」と打ち明けた。
すると家内は何もなかったかのように平然と、こう言った。「あなた、この家、売るより貸す方が、よっぽど得よ~」
私は家内の思いがけない言葉に
「えー、そう返してくるのか」「家を手放すことが平気なのか?」と、瞬間、驚いた。
私は「そうか、この家、貸す方が得なのか」と笑い返した。

あの時、テンパって張り詰めていた私の心が氷解するようにジワーと溶けて、温かくなってきた。そしてつかえていた塊が消えたように、落ち着いてきたことを今でも忘れない。
家内もそのやりとりを覚えていて
「あの時はまともに返答しないほうが良い」「たかだか家一軒でしょ」と思ったそうだ。やはり「女は強し!」である。
私にとっては、「俺にはこいつがいる!」と気づいた時であり、住む家を失うことなど大したことじゃない、命までは取られない、そして自分には一番大切な家族がついている、心配してくれる友人もいる、と奮い立った瞬間でもあった。家内には内緒だが、その時以来、「家内の為ならいつでも死ねる」と思っている。

昨年暮れに紹介した、大峯千日回峰行大行満大阿闍梨・塩沼亮潤住職の『人生生涯 小僧のこころ』に、荒行で死の淵に立った自分を救ってくれたのが、家族の絆と、今までお世話になった方々の励ましの言葉だったとある。おこがましいが、私もそう思う。本当にあの時は家内に救われたのである。
こんなふうに書くと、「どんな奥さんだろう」と思われる方がいるだろう。

家内と私は年齢差を超えた同志

私が家内と一緒になったのは18年前。私が42歳、家内27歳、いわゆる「年の差婚」で、多くの方に年齢差を心配された。それゆえ、エピソードには事欠かない。
結婚式の衣装合わせでは、衣装屋さんが私を家内の父親と間違えて父親用の黒のモーニングを出された。同行していた家内の母親が苦笑した。笑えない話では、結婚披露宴で、一人娘を手放す、しかもよりによって自分とそう年の違わない婿だっただけに、家内の父親は酔っぱらって(?)「あいつの首を絞めて、殺したい!」と、仲人を務めてくれた私の上司に言っていたらしい。ショックだった。

思えば、家内は、横着で勝手な私とよく一緒になったものだと感心してしまう。
当時の私は、営業での連続達成を目指す「田辺組」の現場監督として、部下の営業セールスとドロドロになって仕事に驀進していた。今では、要職にいる元部下たちから「あの頃を思えば、今の苦労なんて……」と言われるが、私は「そんなに厳しかったか?」と思い、少し不満である。

そんな時代に家内はセールスチームのビューティカウンセラー(美容部員)だった。駅前百貨店の化粧品売り場のカネボウコーナーのチーフとして、各メーカーの中で常に売上トップを維持してきた強者である。徹底した顧客管理を貫き、営業セールスの指示も聞き入れないほど生意気で「セールス泣かせ」だったが、きめ細かな優秀な美容部員で、立場は違うものの、いわば同じ釜の飯を食った同志である。

私は彼女を見ていて、仕事以外に全く無頓着な自分には、「伴侶として全て任せても大丈夫だし、楽だろうな」と思ったのが交際の始まりで、細かい経過は省くが、結婚にたどり着いた。ただ、結婚はしたものの、年間の殆どが出張で、結婚式の翌日も海外出張していた。未だ新婚旅行も行けずじまいだが、ひたすら家庭を守ってくれた家内のお蔭で、私は安心して仕事に明け暮れ、仕事も家庭も順調そのもので、東京転勤を皮切りに、静岡支社長、本社の流通部門長と私は階段を上がっていった。

前で触れたが、カネボウ倒産というまさかの事態に遭遇したが、お陰様で、4月、娘は高校3年生になり、息子は中学2年生になる。



元気だけが取り柄の子どもにも、それぞれの付き合いが増えて、家族で行動する機会は減ってきた。少し寂しい気もするが、これからは家内と向き合う時間が増えることになる。
それはそれで、素直に嬉しい!?
家内の両親も孫の成長を見守る優しいお爺ちゃんとお婆ちゃんとなり、私の事も諦め、気に入ってくれているのでは……、と思う。

人の気持ちを応援する「言霊の発信者」でありたい

思うに、目の前が真っ暗になるほど苦しい時こそ、まず己の息使いを感じるほどに気持ちを落ち着かせて、周りを見渡してみることだ。必ず自分を信じ、応援してくれる人がいる。大切なのはそういう人を見つける心のゆとりを忘れてはならない。「大切で有難い人」に気付いた時に、沸き立つ感謝の念は、生涯忘れることが出来ないものになり、その人のためにも頑張ろうと奮起できるものだ。

私は、家内の一言に救われた。今の処、私の「最高の出会い、人生の宝」、最良のサポーターは家内である。勿論、他にも多くの方々との出会いとご縁で、ここまでくることができた。多くの方に感謝! である。

ただ、言葉は人の心を壊すこともある。自分の一言が誰かに影響を及ぼすならば、相手への感謝を忘れずに、絶えずその人が元気になり、気持ちを応援できる言葉の発信者、でありたいものだ。
大切な人への御恩に報いるために、これからは、その方の最良のサポーターとして、微力ながら言霊(ことだま)を発信する覚悟である。小うるさいオヤジが板につくのも時間の問題のように思う。

田辺 志保

2015年1月15日木曜日

還暦を前におぼろげながら見えてきたこと

先日、花王時代に出会った東北の友人と「今年は、お互い還暦、60だな……」と話し込んだ。ただ、彼も私も還暦は通過点、「まだまだ」「人生これから!」との気持ちが強い。そういえば、学生時代の友人からはバンド活動を復活させたいので一緒にどう? と誘われたり、新市場獲得の為に頻繁に出かけている海外での面白話を聞かされたりしていることからも、思いはみな同じのようだ。一昔前、還暦を機に現役を引退する例も多く、還暦をシニアの入り口としていたようだが、今や人生80歳、いや90歳ともいわれる時代である。

ただし、体力、集中力をはじめ身体機能の低下は否めず、気持ちは若くても体のサビ付きを実感することがある。過信せず、若い頃とは違うと己を知り、余裕をもって今の自分に出来る「使命」を見つけたいと強く思う。そして、還暦を前に、おぼろげながらそれが見えてきたような気がしている。

柔道を通して息子とともに学び、成長する

息子が柔道を始めたことで、柔道関係の方々といろいろ話をさせていただいたり、催しに参加させていただいたりする機会が増えた。その一つ、昨年、年の瀬が迫る頃、「千葉県中学柔道強化選手」の親として、千葉県・浦安の了徳寺大学の練習を見学させていただくチャンスが廻ってきた。

その柔道場には世界チャンピオンの秋本啓之選手や世界選手権代表のヌンイラ華蓮選手の姿があった。それだけでドキドキしてきたが、さらに自分の練習ではなく、中学生の強化選手を相手に、自分が築き上げた技を惜しげもなく、手取り足取り直接指導していたから驚いた。思えば「柔道・グランドスラム東京」出場直前の大事な調整期間のはずで、二人の選手が了徳寺大所属とはいえ、信じられない光景だった。トップアスリートの後輩づくりへの情熱を肌で感じ、胸が熱くなった。親のほうが世界の頂点に立つ選手の技を目の当たりにして感極まってしまったのだから、指導を受ける息子の気持ちは言うに及ばず。

息子は秋本選手に世界トップレベルの寝技「秋本返し」を指導してもらった。緊張するやら、感動するやら、夢のようだったという。もちろん、秋本選手からすれば息子は柔道初級者。「秋本返し」の極意をそう簡単に習得できるわけがない。ただ、世界の頂点にたった選手から直接指導、教えを受けたことは息子にとってかけがえのない経験だったことは間違いなく、気持ちに火がついたように見える。



また、同行された選手強化にあたる先生方の眼差しも真剣そのものだった。秋本選手の「足抜きから寝技への移行」を食い入るように見つめ、必死にメモを取り、ビデオを回していた。
ワールドクラスの選手たちのレベルは中学生には少々難しすぎるだけに、普段指導をしてくださる先生方が世界レベル、超一級の技を噛みくだいて教えていくのだろう、と思った。本物を知ることは本物に近づく第一歩なのだと思う。

指導者として、高い評価を得ている先生たちの共通点は、子どもに応じた指導内容が一貫していてぶれないことだ。だから子どもは迷わない。自分にとっての課題と対策が、本人の腹に落ちるのだから、自信をもって一心不乱に練習できるのだ。
息子が指導を受けている、須賀道場の須賀先生、岩崎先生、廣田先生、増田先生も息子に対して「金太郎あめ」のように同じことを言い続けている。
「勇斗は、組手の遅れと、上半身の硬さが課題です。僕らはこれから何百回と言い続けます。同じことを指摘するうちに、やがて自分の課題を肌で感じて体で理解します。そうなれば、どうすべきかを求めるようになり、やるべき練習を何千回と反復してくれるのです」
「自ら、『強くなりたい』と思う子でないと、幾ら教えても変わらないんですよ。どんなに才能があろうと、所詮はやらされていると思っている子はだめです。誰だってラクしたいですから」と。

「千葉県中学生柔道強化選手」は、「強くなりたい」「学びたい」という集団である。昨年はクリスマス返上で勝浦合宿をした。朝から晩まで練習していた。



指導する先生方は休日返上で引率・指導にあたってくださった。先生方にはいつも頭が下がる。申し訳ない限りである。それだけに、親は子どもを中途半端では参加させられない。選手育成の術をもたない無芸の私は、息子と無我夢中で学び、共育を目指すこと、先生方のサポート役に徹することしかできない。

だから、裏方に回ることを「自分たちの使命」と思い、手弁当で指導くださる先生方を支援したい。同様の気持ちをもつ者が力を合わせ、指導者の方々がもっと自由に活躍できる場を広げていきたいし、挫けそうな子どもには声を枯らして応援する……、そんな空気を醸成出来ればと思っている。先生方は「親御さんの理解と協力こそが大切。ありがたい」と常に言ってくださる。

2020年の東京オリンピック。日本選手の活躍が楽しみだ

昨年もスポーツ界にさまざまなドラマが生まれた。若い力の台頭も目をひいた。テニス、卓球、体操、バドミントン、フィギュアスケート……。柔道界では、12月に行われた「柔道・グランドスラム東京」で、66キロ級の神戸の高校2年生・阿部一二三君が世界一になった。

柔道関係の方から、2020年の東京オリンピックに向けて、各種目別に「金の卵」を発掘・育成すべく全国の中学、高校生の強化選手育成費用が大幅に増額したと聞いた。
東京オリンピックは「元気な日本」「グローバル日本」を世界にアピールするチャンスでもあり、大いに結構である。2020年に向けて精一杯過ごすべきである。

と同時に、世界を経験したトップアスリートには、経験者にしかわからないことを次世代の若い選手たちに積極的に伝授していただきたい。なぜなら、その場の雰囲気を味わったことのない人間がどんなに熱く語っても、伝え、教えることができないからだ。息子が世界チャンピオンの秋本選手と直接触れ合ったことで柔道に対するモチベーションが一気に上がったように、襟のつかみ方、言葉、息づかいなど一つ一つに子どもたちの素直な心が反応するのだ。

私は「出会いは人生の宝」と信じている。もちろん、息子にもそう思ってもらいたい。そして、出会った方も同じ思いを共有できれば嬉しい。そうしたつながり、輪が広がるよう努めることが私にできることではと思う。
今、日本には柔道をはじめ、野球、テニス、バドミントン、卓球、フィギュアスケートなど、世界で活躍している選手が大勢いる。選手を支えるスタッフも充実してきている。その人たちから直接学ぶ機会、出会いが増えることを願うばかりだ。

企業は未だに目の前の商い、「金になるか?」が評価軸。しかし、単なる経済成長を考えるのではなく、次の世代にどのように引き継ぐか、次世代の果実の芽となるよう成長の種をどうまくかを考えるときがきている。オリンピックに限らず、何かにつけて「金」をすぐ欲しがるが、もっと長期的な視点が必要のように思う。
マイナー種目・分野に向けた応援、参加・協賛するなどして、長いスパンで恩恵にあずかる気持ちをもって欲しいものである。
さらには私も含め、自分にとって「有益かどうか」「損か得か」ではかる物差しを忘れ、それを超えた人生の価値を共有していきたい。
私は、近所の公園をゲートボール大会で占拠するなら、危険を理由に禁止している野球もサッカーも子どもたちに開放してはと陳情し、子どもの学芸会で親の目を意識して主役の白雪姫を10人も配するのは「いかがなものか」と発する親でもありたいと思う。

家内から「ちょっと待ってよ……」と言われそうだが、還暦を前に今以上に小うるさくなりそうだ! いや、それを目指そう!? 
やっぱり「正しく行って何人も恐れず」である。これは鐘紡の経営に長年携わった紡績王・武藤山治翁の言葉。悔やんでも始まらないが、つくづく思う。カネボウイズムは絶対に忘れてはいけない、と。
                             
昭和39(1964)年の東京オリンピックの時、私は9歳だった。オリンピックを機に街も人も様変わりし、環境は著しく変化した。あれから半世紀。2020年、ふたたび東京でオリンピックが開催される。世界に向けて円熟した日本を示せるかと期待に胸が膨らむ。日本の若い選手が活き活きと活躍する姿を見たいものだ。中でも「柔道」は外せない。

田辺 志保

2015年1月1日木曜日

新年を迎えて

謹賀新年。
本年も、全力で取り組んで参る所存です。昨年同様の変わらぬご厚情を賜り、何卒宜しくお願い申し上げます。皆様にとりましても更なる飛躍の年となりますようお祈り申し上げます。



お陰様でわが社も、穏やかに新年を迎えることができました。
私は例年、年初に、今年一年の抱負を決めて机上に貼って眺めることにしているが、今年掲げた言葉は「気力充実」。気力をみなぎらせて、やる気、元気、根気を更にパワーアップしようと考えたからだ。ただ、思い込み激しく、テンションが上がり過ぎる傾向があるだけに、周りの皆さんにご迷惑をかけないように、「短気は損気」を胸に秘めて、空回りしないよう気勢を上げていこうと思っている。

「気力」を辞書で調べると、困難や障害に負けずに物事をやり通す強い精神力。気持ちの張り、気合、とある。健康で生きていることを「気力がある」状態と捉えると、自分の行いに目的や意味を見出している限り「気力」は備わっていることになる。要は「健康一番」なのだ。

問題は、それでも「気力」が萎えてしまう時にどうするか……、である。
以前お話ししたが、トコトン落ち込んだ時には胃に食物の残留物がないという。つまり気力が萎えると空腹状態にあるのだ。「生きる」ためのエネルギーを摂取しなければ、負のスパイラルに陥り、やがて「気力ゼロ」となる。
元気がない時は、まず食う! この発想も大事だ。「辛いから食べられない」でなく「食べないから辛くなる」と思うことだ。ただし、ストレスによる過食症には気を付けること。辛いなあと思った時は、まずは水を一杯飲もう!

私にとって、今年は還暦、節目の年となる。水を飲む機会が増えるかもしれないが、健康一番、気力を充実させるためにも、病気をしないようにしたい。風邪ひとつひかないよう心がけたいと思う。当たり前のこと、手洗い・うがいの励行と、免疫力を向上させるために大いに笑っていきたいものだ。笑いが及ぼす健康効果はよく言われているが、中でも免疫力を高める効果はさまざま実証され、介護の世界などでも取り入れられている。

「笑う門には福来る」「笑って暮らすも一生、怒って暮らすも一生」である。「気力充実」のポイントは「笑い」にあるかもしれない。
溢れる気力の持ち主をめざし、笑顔を咲かせ、笑わせる使者になろう、と決めた。

田辺 志保