2013年4月18日木曜日

楽しい未来に向けて、肝に銘ずること。(後編)

この世で変えられないのは「己の過去と、人の心」である。
そして、変えることができるのは 「己の心と、自分の未来」

前編で「心構え」を変えてから、後編では「優しさ」を持つ方法です。

「優しさ」を持つ、秘訣その1
「相手の感情」を知ること。

数年前の第一生命主催の「サラリーマン川柳」の作品に
「ごみの日に 出したいごみは まだ寝てる」というのがあった。傑作だと思った。
講演などで紹介すると、女性の方は、亭主が日曜日にパジャマ姿で寝転んでいる場面を想像するらしい。
休日に家でゴロゴロしている亭主は粗大ゴミなのかもしれない。この川柳を、多くは女性の作品と思うようだ。
しかし、真実は違う。これを作ったのは男性である。
平日の朝、会社に出勤する亭主に向かって、パジャマ姿の女房からの一言、
「あなた、途中のゴミ置き場に生ごみを捨てて行って頂戴」。
亭主は、ごみを出すために、かばんとごみ袋を左右に持って家から出るということらしい。
どうやら、ごみは奥様のようだ!
ちなみに「まだ寝てる 帰ってみれば もう寝てる」という川柳もあった。

当たり前だが、人が感じる「嬉しい」「悲しい」「楽しい」気持ちになるのは、自分の周りで起こる色々な出来事に呼応している。つまり「見る、聞く、嗅ぐ、味わい、触れる」という五感で判断して、一喜一憂する。
その判断基準は、今までの自分の生き様というか、経験によって作り上げてきた「既成概念」が目安になるので、当然だが他の人とは一致しない。
親子だろうと、夫婦だろうと立場、環境、経験が異なるので、味噌汁の味噌は「白味噌」か「赤味噌」かで、けんかになったりする。
ここで忘れていけないのは、相手側に立った見方が、おろそかになる、ということだ。

「人」は2歳から4歳までに、「人間」になろうとする。つまり「自我」に目覚める基本的な準備としての「概念」を作るそうだ。
「大きい」「小さい」「花」「動物」などの判断が、できるようになる。
その後、「人間」への成長過程で、無数の概念づくりをする。
「真偽」「美醜」「善悪」などである。ある面、ピュアな心が消えていくのかもしれない。
これは環境が重要だから、国が違うとか、周囲の環境によって著しく異なってくる。

学者のなかには、「『概念』とは脳の感覚機能の連合体による勝手な判断」と言い切る方もいる。だから、変えられる。我儘な自我を作り上げた概念をリセットしてみることだ。
相手の心理にせまり、立場を変えて見直すことで、自分が変わる。
しかし、相手の心を深読みしても、その想像が全く違っていることが多いから厄介だ。
では、具体的にどうすればよいかを考えてみたい。

「優しさ」を持つ、秘訣その2
「相手の感情」の次に「相手の望む心」に応える。
「幸せ与え行動」のススメ。

まず、人の見方は全く違うということを、理解すること。目に入る映像は、自分の眼球と網膜に映して見ている。この時点で相手の網膜にはなれない。
私が子どもの頃に見た故郷・静岡の大浜海岸の「青空」は、息子が広島で見た「青空」と同じわけがない。
同じ時刻に同じ場所で同じ「青空」を眺めると、かなり同じ概念に近づけるかもしれない。
しかし全く同じ「青の色」にはならない。相手との同質化自体が不可能、と思い知ることだ。せめて、相手の心に近づき、相手が嬉しいと思うことを「行動指針」とする以外ない。

どんな人でも、「人間関係の中で感じる幸せ」は4つある、と言われている。

「愛されている」
「ほめられたい」
「必要とされている」
「役に立っている」
この4つと言うが、どうだろう。

人は自己の存在意義を求めている。その答えとして、己の存在を認められることで得る心地よさや、満足感などで、「幸せ」と感じるのだろう。
わずらわしい人間関係渦巻く中で、良好な周囲の人々との接し方やマネージメントをするには、この4つの幸せ感を相手先に充足させることが、実に効果的であり大切になる。
冒頭部分で触れた、「立場変われば見方も変わる」でおわかりのように、我々は常に
「愛されたい」「ほめられたい」「必要とされ」「役に立っている」と思われ、評価されたい。だからといって、全ての人が、自分の満足を求めてそうされたいと思っていては収拾がつかない。
相手に求めず、「自分しか変わらない」の言葉通り「愛する」「ほめる」「必要だ」「役に立っている」と相手に発信するのである。求めるのでなく、与えるのである。
後輩や、部下や、仲間が増える度に、相手への幸せ与え行動は活発になる。
こちらからの与える発信が増えていくのである。
人間関係の中で感じる幸せが満たされてくると、「生きがい」へと繋がるようだ。
会社組織の活性化にはこの「蔓延」と「連鎖」が非常に重要になる。

「短所改善法」を減らして、「長所伸展法」でほめまくる。

我々はつい、「現状の課題とその対策」で業務活動を回してしまう。
出来ていないことを直そうとする短所改善法から長所進展法へと大きく変換する必要がある。私も含めて、経営者の方々とこんな話をすると、「うちでは、好事例の表彰など、ほめる・認める活動を披露する場面を作っている」とおっしゃる。しかし、出来ていないことへの指摘や対策のほうが圧倒的に多いはずである。
組織の運営スキームや人事的評価にまで落とし込まれた企業は、どのくらいあるのだろうかと、考えてしまう。

自分の側から見れば当然、愛されたいし、認められたい。しかしそれを求めるのでなく相手に与えることに喜びを見出す。すぐには無理かもしれないが、相手に幸せな気持ちになっていただくと、必ず自分に撥ね返ってくる。

「友の悲しみに我は泣き、友の喜びに我は舞う」

私も皆さんも、実はそのことを知っている。
なぜなら、「この人は魅力がある」と思える人って、自分が、自分が、とアピールする人ではなく、「人のキラキラオーラ」に反応する受信専用電波を発している人だ。「私を認めて」から「相手を認める」へ切り替えることで、相手は「友」となる。
友の魅力を見つけたら、素直に反応し、嬉しいと喜べる度量も備わるのだ。
自分のことより、相手を思い、いつも人を気遣う謙虚な心。なんて魅力的な人だろう。

それにひきかえ、私は、今日まだ誰も笑顔でほめていない。認めるために、ほめるために相手をよく観察してみよう。そして、幸せな気持ちになっていただこう。

やはり、楽しい未来の前提は、
この世で変えられないのは「己の過去と、人の心」であり、変えることができるのは 「己の心と、自分の未来」しかないのである。


2013年4月4日木曜日

楽しい未来に向けて、肝に銘ずること(前編)


この世で変えられないのは「己の過去と、人の心」である。
そして、変えることができるのは 「己の心と、自分の未来」
 
昨年、ブログ開設挨拶の中で「楽しく充実した日々を送る」ために、朝目覚めたら「まだ何も失敗していない新しい一日」が始まったと思い、その日が終わるまでに「明日に好奇心が持てる」ことを見つけよう、と紹介した。

そのブログを見た知人から「本当に、そうやって日々過ごせば、明るい未来が来るのか?」と、問われた。その時、私は「ちょっとした秘訣や、そうなりたいという決意は大切」と付け加えた。それは何なのか、自分にも言い聞かせる意味で紹介したい。

ステップはふたつ。
まず、「心構え」を変えること、次に「優しさ」を持つことです。
硬い話ですみません。興味のある方はどうぞお付き合い下さい。

「心構え」を変える、秘訣その1  
「後ろ向き」気持ちの「ついてない」モードをリセットして、次に最強モード
「前向き」になる「ついている」ボタンを押す。

休日、近所の千葉・浦安地区を散歩する。すると、いたる所に「2年前の大震災」の爪あとが残っていることに気づく。

街は、そこに暮らす人々と共に変化していく。新興マンションが立ち並ぶここら辺では、子どもたちが通う小学校が、数十年後には老人ホームに転用できる造りになっている。
しかし、ひとたび想定外の災害が起きると、修復は容易ではない。
東北の被災地とは比べようもないが、浦安でも「液状化現象」で大きな被害が出た。
下水道が寸断されて、小学校、中学校ではその年の秋まで校庭の簡易トイレで用を足していた。全ての地区での公共被害をまとめ、予算を計上し優先順位を付けて、本格的に修復工事が動き出すまで時間がかかるという。
結果、公園の囲いとか、道路わきの花壇などの細かな所が、まだそのままになっている。
近くの公園で、1メートル以上地面から飛び出した下水管を、「モニュメント」として残す工事が始まった。賛否両論あるそうだが、その目的が皆に伝わればと思う。
何のために、何を、どう残すか、である。
どの街も変化するが、「そこに人がいる」ことは普遍である。
「そこに人がいる」かぎり、全ての物、全てのこと、全ての心が「人に優しくあるべき」というのが、変えてはならないテーマなのだと思う。                            

以前読んだ、重松清の小説『定年ゴジラ』では、東京近郊のお洒落な新興住宅地区の人々が一斉に定年を迎え始め、暇なリタイア・シニアたちが昼間歩き回り、公民館が「憩いの場」になっていた。
笑えない話であるが、わが街もそうなっていくのだろうか。
30年後を想像してみる。多分、私はいない。家内はきっと元気はつらつだ。
そして、彼女は30年後に何を思うのだろう。

30年後、待ち遠しくなる温かな風景を絶対につくろう。

子どもが少なくなり、久しぶりに子どもの姿をみかけると微笑んでしまう。
平日、近所のスーパーに行く。昼間、暇なお父さんが目につく。
心得たもので、レジの女性がお客様の目をみて「いらっしゃいませ」と満面の笑顔で頭を下げるのだ。スーパーの最大の販売促進は、お客様への笑顔。いちころだ。
一方、奥様たちは皆元気。子育ても終わり亭主の世話もそこそこに、お仲間との趣味の集いや、サークル活動、お茶会と、笑い声が絶えない。

大切なのは、そこがどんな街並みになろうとも、高齢になった住民が近所を歩くのに不便をしない、現在の子どもたちが40を過ぎて地元を愛し、生き生きと暮らしていければ申し分なしだ。
簡単でないことは百も承知だが、「嫌なこと」や、「辛いこと」を、ちょっとした受け止め方で「楽しい気持ち」に変えることができれば、「人に優しく、自分に厳しく」の心が育ち始める。そのために、まず自分が「心構え」を少し変えて、「相手の求める心」を知る。必ず行動が変わってくる。それが周囲に伝わる。
皆がそうなってくると空気が変わる。吹く風さえも穏やかに感じられ、家の中にやさしい「家風」が生まれ、学校にも温かい「校風」、街全体の風土も変わり、勤め先にも新しい「社風」が吹いてくるかもしれない。

「ついている」「ついていない」とは何だろう。

「茶柱が立っている」「電車に間に合った」「朝、快晴」など、「今日はついている」と思うことは多い。しかし、逆に、朝目覚めると寝過ごしてしまい、カーテンを開けると大雨、間に合わないので、お茶一杯も飲まずに家を出たが、駅の階段で転んでしまい、電車にも乗り遅れた、などと続くとウンザリしてくる。

こんな時、「きっと自分は今、運勢下降気味だから」などと悲劇のヒロイン・ヒーローになっていく。そして、こんな調子で「ついていない」事件が続くと、ストレスも増大、どんどんマイナス思考が働いてしまい、「私は不幸で、何もかもついていない」などと考えているうちに「人生」そのものが、ついてないなどと「負のスパイラル」に巻き込まれる。
本来、「ついている」「ついていない」は、自主基準だし、二者択一なので、半々の確率で出くわすはず。ならば、自分は断然「ついている」シリーズのほうが多い、と信じたほうが得だ。今すぐ前向きモードに切り替わる「ついている」ボタンを押そう。

「心構え」を変える、秘訣その2
「~なのに、なぜ」の恨み節は捨てること。

知り合いの医者に「ストレスとは?」と尋ねたら「こうなりたいのに、そうならない状態」と返された。となると、なにもかもストレスになる。私もストレスの連続である。

朝の目覚まし時計が鳴ると「もっと寝ていたいのに」、食事のたびに「ほんとうはあれが食べたかったのに」、子どもの顔を見て「もっと素直なはずなのに」、スキンヘッドの我が頭を「こんなはずじゃなかったのに」、仕事仲間に「あれだけ説明したのに」など。

並べただけでも「~のに」のオンパレードである。必ず「~のに」には、これだけしてやったのにという「恨み」が横たわったりしている。そしてその後は必ず「なぜ~」と続くのである。

自分以外を原因とする、この思考は、止めたほうが良い。自分には落ち度が無い発想なので、すべて相手が悪くなる。なかには相手のミスで起こる事件もあるが、全て相手が悪いから、自分は変えない。相手様が変われ!となるので、課題も対策も自分でコントロールできない。つまり解決しないのである。
「世間が悪い」「お天道様が悪い」となると、空しいばかりで、結局あとに残るは「恨み節」だけになる。
そうならずに、自分自身、前向きになり、上り坂に進むためには、
「こうしたいのに、そうならない」のは、相手ではなく「自分」の責任で、自分の行動、考え、取り組み方を変えないからだ、と思うことだ。

やり方は、簡単。「~のに」から「なぜ~」にするだけである。たとえばこうなる。
「主張したいと思う子どもを、なぜ素直でないと思うのか」
「うまくいかないのは、説明不足か、その内容か」
「何でも世間が悪いといってしまうのは、なぜなのか」
と、自責モードに変換すると自分をどう変えるかという「答え」が見えたりする。

この世で変えられないことは 「己の過去と、人の心」である。
そして、変えることができることは 「己の心と、自分の未来」だけ。

これを肝に銘ずること。そのほうが解決に近づく。
「ついている」ラッキー、と思うのも同じこと。「ついていない」ことが逆になる。
「朝起きるのがつらいのは、寝ていた証拠」
「雨が降るから、晴れがうれしく感じられ、おまけに、お肌が潤う」
「階段で転んだけれど、骨折しなくてよかった」
「乗り遅れたけど、次の電車に無事乗れた」
「相手が遅れ、待たされた、けれど、無事で何より」
「嫌な相手、おまえはこうなるな、と教えてくれている」

人生、どんな困難な坂に遭遇しても、自分自身に「前向き」ボタンを押すだけである。

ついでにもう一言。ずっと昔、故郷・静岡の近所のお寺の掲示板に書かれていた言葉が忘れられない。

「子ども 怒るな 来た道だ、年寄り 叱るな 行く道だ」