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2013年6月28日金曜日

「舞台白粉」物語 カネボウの軌跡(後編)

第11代團十郎さん(以下、敬称略させていただきます)とカネボウが作り上げた「舞台白粉」の製造・発売秘話を紹介したい。舞台・映画全盛期にあわせ、舞台白粉、舞台化粧が進化を遂げ、今日の礎を築いた人々の物語である。



「舞台白粉」商品化は、歌舞伎の大ファンであり、常々品質の良い白粉の開発のために試行錯誤していた、ケービーケー(KBK)商会創立者の丸岡文平社長と、11代團十郎との出会いから始まった。両者の思いが一つになり、「最高の舞台白粉」プロジェクトは動き始めたのである。
その推進部隊の責任者がケービーケー(KBK)商会の研究所の常光敏治技師長である。カネボウ化粧品の名技術者として知られる方で、彼が「團十郎・舞台白粉」の処方を手掛けた。残念ながら常光さんは亡くなられているが、当時の常光チームに角田さん(後の中原工場長)と会田康二さんがいらした。会田康二さんとは、現在もおつき合いをさせていただいている。(株)コスメティック・アイーダの会長として、以前ブログでも紹介した「舞台白粉」「ステージカラー」の総販売代理店をお願いしている方でもある。



会田さんからは、丸岡さんや常光さんとの思い出を数多くお聞きしたが、舞台白粉づくりに話がおよぶと「練白粉の要は『混合の技術』にあり、常光さんの下で、特に練りこんでいくローラーの作業に、細心の注意を払ったことは忘れられない」と話してくれた。

後の團十郎との「舞台白粉」、團十郎の「色」と「持ち」を追求した白塗りの「カネボウ・ステージカラー舞台白粉」の成功に貢献することになるのが、完成の6年前、1956(昭和31)年4月に発売したステージ用ファンデーション「カネボウ・ステージカラー」である。温度差にも崩れないというのが他社に負けない特色である。

当時ファンデーションはマックスファクターのスティック状油性白粉「パンスティック」が主流であった。一般的にスティック状油性白粉は、夏仕様は冬に固まり、冬仕様は夏溶けてしまうという課題があった。常光さんはそれを「チクソトロピー理論」(粘度ある物質の分散系の時間依存性)を応用して年間使用を可能にし、全国一斉にカネボウ化粧品の販売ルートで発売したのである。

同年7月、日本色彩研究所と協力して、カラーフィルムにおいて肌色が再現できる原料配合を開発し、テレビ・映画・演劇用ファンデーションを完成させたのである。NHKでの使用を皮切りに、多くのテレビ局と映画界に使用されていった。日本のファンデーション普及の先導役を「カネボウ・ステージカラー」が担ったともいえた。

「カネボウ・ステージカラー・舞台白粉」は、11代團十郎のお墨付きをいただき、全国のカネボウ販売ルートで取扱いをしていた。歌舞伎や舞妓さんの舞台白粉市場はもとより、舞台・演劇界、映画界などのステージカラー市場は、そんなに大きくなく、事業としては厳しいものがあり、やがて他の大手メーカーが軒並み撤退していった。
こうした大手メーカーの生産中止は、小規模とはいえ業界内での供給が滞る事態を招いた。

京都でその話を耳にしたカネボウは「舞台白粉」の生産を止めるどころか、安定的生産を目指して協力会社「紀伊産業」とも相談し、カネボウ鴨宮工場での「舞台白粉」の生産開始を決断した。今から18年前の1995年のことである。

当時のことを、鴨宮工場の棟方邦彦さんに教えていただき、驚いた。
「舞台白粉」生産にあたり、あらゆる最新の化粧品生産技術と機械化を試行したという。
ところが、いくら試しても「舞台白粉」は粘度が高く現在の混合技術仕様の機械は使えない。「とり餅」のように引っ付いてしまいどうしてもうまくいかない。

最終的に彼の出した結論は、「原点に返り、手作りにする」ことであった。独自の杵を作りローラーにかけて練る。そして出来上がった「練り白粉」を一つ一つ、手作業で箆(ヘラ)を使い容器に詰めていく。効率最優先の今、なんという非効率な作り方であろう。



その「手作り」の決断から分かったことは、そもそも「舞台白粉」が、一つ一つの手作業、手作りによって完成されていて、残念ながら如何に技術が進化しようが変えようがないということであった。

11代團十郎とカネボウが作り上げた「舞台白粉」は、当初から多くの影の力を得て、半世紀を超えて今なお、処方だけでなく生産工程についても全く変わることなく生き続けていくことになったのである。現在、「舞台白粉」から「ねり白粉・ピンク」「ねり白粉・白」の2種類も加わり多くの演劇・映像関係者にご愛用いただいている。これらは、すべて「手作業」である。

團十郎の「舞台白粉」の歴史を振り返ったことで、当時カネボウが「フォアビューティフル・ヒューマンライフ」、「芸術化産業のカネボウ」として消費者や社会に貢献することを標榜していた頃の一端を知ることが出来た。
その後、2003年、カネボウは、産業再生機構入りし、一時は生産を諦めるところまで追い込められたが、幾多の危機を乗り越えながら、周りの人々の理解と協力によって「舞台白粉」の伝統、そして「フォアビューティフル・ヒューマンライフ」、「芸術化産業のカネボウ」を守ることが出来たのである。

「価値あるものは、滅びない」

どんなに時代が変わり、環境が変化しても、変えてはいけないことがある。ビジネスの世界では「損か、得か」が幅を利かす。個人的な人との付き合いは「好きか、嫌いか」が幅を利かす。世の中は「善か、悪か」が幅を利かすのだろうか。しかし、よく考えると、すべてが曖昧な物差しに思えてくる。価値観が異なる人々とのやり取りには、明確な答えなど無いのだろう。

「舞台白粉」にかけた11代團十郎の「色」と「持ち」への並々ならぬこだわり、それを製品化したカネボウの研究陣、それを手作業で作り続ける生産の人々、その人たちの「思い」を察すると、皆さんが同じ価値観を持っていることに気付く。前にもお話したが、京都で「舞台白粉」の歴史を知った12代團十郎さんが、声を絞るようにして感謝の気持ちをあわらしてくださった。11代團十郎をはじめ、「舞台白粉」にかかわるすべての人の価値観が共鳴したようであった。

人への優しさに溢れた亡き12代團十郎さんの心は「歌舞伎を愛し、市川一門を愛する方々に、いつまでも喜んでいただける」ことに、「最上の価値」を置いていた。
だから「市川團十郎」の唱える価値を、共有・協働できる人々は、全てが仲間だと思う。


我々が求め続ける「お客様の笑顔」とは、自分を取り巻くすべての「人」や「こと」にも通じる。もう一度自分に言い聞かせながら、「出会いは人生の宝」を噛みしめた。


田辺志保

2013年6月4日火曜日

「舞台白粉」物語 カネボウの軌跡(前編)

少し前、私のブログで昨年お目にかかった市川團十郎さんとの思い出を掲載したところ、最近、多くの方から「舞台白粉」のことを質問される。
歌舞伎ファンと市川一門を贔屓にされている方々には「舞台白粉」も気になるようだ。

京都での出会いは、友人の佐藤さんが取り持ってくださったご縁の席上で、私どもが團十郎事務所に「舞台白粉」をご提供させていただいている不思議を披露させていただいた。

舞台白粉は、「どのような商品で、どうやって使うのか?」「歴史は?」「どこで、いくらで売っているの?」など、お知りになりたいようである。
実は私も、京都でのスピーチのために「鐘紡100年史」を読み、当時のことを知る先輩諸氏から教えていただいて分かったことがたくさんあった。
折角なので、その時に「舞台白粉」で分かったことを、紹介したい。

「舞台白粉」の歴史

カネボウ化粧品は、120年前の「鐘紡(鐘ヶ淵紡績)」から始まっている。その名前から分かるように、もともとは繊維の会社である。1954年、化粧品を生産するケービーケー(KBK)商会という会社を設立し、本格的にカネボウ化粧品として動き始めた。
当時は、映画・舞台が全盛であり、カネボウは品質第一主義をモットーに歌舞伎・映画を始めとする各層の著名人の協力と援助を得て、ステージカラーという商品を作り上げていく。
このノウハウが他社に負けない特色となり、今日のカネボウ化粧品へと続くのである。

この年に、歌舞伎6代目菊五郎の要望で「舞台白粉」を完成している。
9代目市川團十郎は、菊五郎に芸を仕込み、東京歌舞伎座での6代目菊五郎襲名の「後援」もしており、その関係は深かったようだ。

その後、11代團十郎から「さらに品質の良い舞台白粉を」という要望に応え改良品の共同研究者として、製品化に尽力いただいた。この完成が1960(昭和35)年のことである。当時、80グラムで300円という価格であった。
現在の「舞台白粉」は130グラム、2000円(税抜)で、舞台化粧専門のお店で売られている。
個人使用でない團十郎事務所には、業務用の1キロサイズでお届けしていて、これは一般の方の商品と違い、歌舞伎座の緞帳模様も何もないシンプルなものである。



安心の舞台白粉を目指して

その昔、「白粉」おしろいには鉛が使用されていた。鉛中毒で胃腸病、脳病、神経麻痺などを引き起こす事例が多く、日常的に使用頻度が高い舞台俳優はその病症が顕著であった。
肌にも表れる「ドウランやけ」の状態は役者にとって大きなダメージであった。
1934(昭和9)年に、鉛を使用した白粉(鉛白粉)製造は禁止されたが、鉛白粉のほうが「美しく見える」と、まだかなりの需要があったとのことである。

團十郎とカネボウは、この悩みを「解決したい」と考え、「肌に安心な商品」だけでなく鉛白粉より美しく見える舞台白粉を目指した。また「練り白粉」は温度差に左右されないものでなければならない、という大きな課題も抱えていた。
舞台の特殊な照明、激しい動きにも崩れない。だからといって、固まったり、のびが悪かったりしては駄目。舞台照明に映えることはもちろん、歌舞伎の「隈取」(くまどり)のコントラストの重要な下地の「白色」の頂点を極めること。
動きの速い「荒事」をお家芸にするだけに、團十郎の求めるものは限りなく完成度の高いものであった。
「鐘紡100年史」に、「製品化に至る過程では、團十郎の厳しい要請と、度重なる試作品のやり取りがあり、製品化には苦労と困難があった」と、記されている。

激しい気性であった11代團十郎と、当時のケービーケー(KBK)商会の研究陣との激しいやり取りを経て、團十郎の執念が「カネボウステージカラー・舞台白粉」を世に送り出したのである。
あれから53年経って、今なお市川一門の舞台白粉として、愛用されているのである。

照明や太陽の下でも「肌の色」が映える、汗や皮脂にも崩れない、温度差に強い、そして何より安心・安全である、この課題に團十郎とともに取り組んだ当時のカネボウの技術が、その後のファンデーションづくりに生かされていることは、言うまでもない。

私は、化粧品づくりに身を置く一人として、團十郎とカネボウが総力を結集して、「舞台白粉」を完成させ、これが日本の伝統文化を継承することに、微力ながら貢献できることを「誇り」に思う。
(敬称を略させていただきました)  


田辺志保

2013年5月2日木曜日

「グローバルな人材」を考えたら「人間力」に行き着いた。

娘がこの春高校1年になった。制服に身を包み、期待に胸を膨らませ登校している。
真新しいスーツ姿の新入社員が、集団で電車に乗り込んでくる場面にも出くわした。この時期、多くの人が新たなスタートを切ったことだろう。夢一杯の彼らが、2か月目辺りから、やっと入った学校や職場が、自分が思い描いていた所と違うなあと感じ始める。「これが現実」と割り切ろうとしても、悔しくて気が重くなる。俗に「5月病」だ。

「思い通りにならない」は当たり前と思うこと。

そもそも「こうなる筈が、そうならない」という状態は常態化していているもので、そのストレスをどう克服するかである。「まあ、いいか」はストレス回避にはなるが、それは「倦怠」や「諦め」という副作用を引き起こす。その結果「ここは、不向きだ」となる。

だが、結論を出すには早すぎる。縁あって入った学校や職場が、まだまだ、どんな所で他にどんな仲間かを知らないままだ。勿論、環境を変えることは悪いことではない。ただ同じ轍を踏まない為にも、新しい仲間がどんな人たちで、何を思い、何を目的に働いているのかを、少し時間をかけて観察してみよう。人生は長い。

若い人には聞きなれないかもしれないが、昔から「石の上にも3年」と言われ、そのくらいの経験が必要で、性急に判断するなということだ。グローバル化が進み、生涯雇用、年功序列などの昔の「会社に奉公」とか「上司、先輩は神様」の発想はなくなっているが、現代のグローバル化でも共通な「夢を持つ大切さ」や、「ミッション」「コンセンサス」「チーム」というワードは大切で、今も昔も同様に言われており、本質は同じである。

海外の方とビジネスしていても、相手先様の所作や言葉の違いはあるが、個人が醸し出す「人間力」「魅力」のオーラは万国共通である。外見や、態度など全く関係ない。それでも気になるときは「概念が生み出す間違った判断」と思ったほうが良い。

2年前、カネボウコスミリオンという会社に来て「一体この会社は何をする所だろう」と思った。一貫して、決まった流通にカネボウや花王の商品をいかにして売るかを業務として歩んだので、「未知の取引先専用のオリジナル化粧品づくり」というOEM概念がない。
「自分が分からないのだから、他の人はもっと分からないはず」。それが、昨年会社のホームページの全面刷新と、ついでに「社長ブログ」まで開設した理由である。

最近、そのホームページに海外からのアクセスがあるようで「社長ブログ」も英語版で加えようという話しが出た。英語は全くの「素人」である。大学まで英語の授業は存在したが、恥ずかしい話だが全く身についていない。

海外でも、私はすべて「日本語」で通している。中途半端に稚拙な英語を使い、誤解でもされたら大変である。いつもの調子の日本語で、相手の目を見て、気持ちを込めて話しをしている。すると、お互いが自国語で話しても、コミュニケーションは、ちゃんと成立しているものだ。そんな話をしていたら、「それは、あいだにいる通訳の方のお陰だ」と言われた。ごもっともである。

「国内市場は限界」と言われ、多くの企業がグローバル化を進めてきたが、語学力だけでは通用しない。「日本語しか話せない営業力のある人」と「営業力はないが英語が堪能の人」の二者択一を迫られたら、迷わず前者を選ぶ。「営業力」は「人間力」にも通じ、「魅力がある」とか「感性が豊か」ということは、とても重要。その人の生き様と中身が出るから。そこに語学力が備われば、完璧である。

心躍る「グローバルな方」との出会い。

最近、仕事でそんな素敵な方と知り合えた。
ファミリーマートさんと共同で開発した専用メイク、新「mfc」キャンペーンの応援をお願いしたモデル・リーザさんである。
ドイツで生まれ、日本ではドイツ人学校に通って育ったので、純日本的な礼節より欧米的なフレンドリーなオーラが出ている。それだけに、芸能界の先輩、後輩の付き合いなどを心配してしまうが、お会いすれば必ず彼女のファンになること間違いなしだ。
テンポのある会話や、お互いのブログの話題などに、賢さと、飾らない人柄の良さが滲み出ていた。彼女の「LIZAのブログ」を拝見したが、価値を見出す発見力と、彼女らしいグローバルな感性で捉えた写真と英語の表現力に驚いた。早速お気に入りに登録した。

決して「田辺は『きれいな女性』だから気に入ったな」ではない。是非、彼女の内面に注目してやって欲しい。これからのグローバル時代で活躍する一人だと思う。彼女の発するエネルギーが、太陽のように周りを照らし、楽しくさせてくれるよう祈念している。
⇒LIZAオフィシャルブログ
⇒mfc LIZAメッセージ動画

心に響く「わが人生の宝」と思う出会い。

リーザさんのように若い方の出会いも感激だが、自分にとって「目指したい太陽」のような「あこがれ」の方との出会いもあった。それは、今なお、寂しさが消えることのない「市川團十郎」さんとの出会いだ。
昨年秋の出会い以来、私が團十郎さんに魅せられた理由をあれこれ考えて分かったのだが、その一つに「團十郎さんの声」がある。
私も人前で話す機会が多々あり、多少の言葉使いと身振りで相手に伝える術は身に付けたつもりだが、團十郎さんはそんな小手先のレベルではない。相手の心の奥深くに届く「音」である。だから「共振」する。天龍寺で、「カネボウさん、有難うございます」という「音」を聞いたときに、私からの感謝が「共鳴」したのである。
日本の伝統文化の歌舞伎役者として、常に厳しい視線を自らに向け、命の意味を考え、生きることの孤高さを内に秘めながら生き抜いた團十郎さんは、まさに世界の人々を魅了する「人間力」をお持ちの方であった。
できることなら、いま一度「團十郎さんの声」を聞きたい・・・。
魅力的なあのお声が再び聞けないことを、心底かなしく思う。

先日、市川海老蔵さんのブログが開設されていた。團十郎さんの意志と市川家の血を受け継いでいる方である。感慨深く、お気に入りに登録した。
⇒成田屋 市川團十郎・市川海老蔵 公式Webサイト
 (※新着情報でこのブログを紹介いただいております)

これまでに多くの方の「人間力」に感服してきた。そしてこれからも、素晴らしい方々とお会いしたい。その期待で一杯です。

「出会いは人生の宝」である。
次回も「心震える素敵な出会い」を紹介してみたいと思います。
                                 

2013年2月8日金曜日

ひとの「命のはかなさ」を乗り越えて。

「市川團十郎さんの訃報」に接し、ただただ驚くばかりである。

節分の翌朝、2月4日、新聞・テレビで市川團十郎さん急逝を知り、愕然とした。
先月、このブログで京都で市川團十郎さんにお会いして、その圧倒的存在感と、穏やかなお人柄、謙虚な物腰に、いっぺんに魅了され、熱烈な「團十郎ファン」になってしまったことをお伝えした。
「聖マウリツィオ・ラザロ騎士団」ナイト称号受勲式の席で、激しい気性であった11代團十郎さんとの「舞台白粉」完成までの苦労話に、熱心に耳を傾けてくださり、ご挨拶では、あの腹の底に響くような声で、我々に勇気百倍のエールを送っていただいたばかりである。
そして、先日「市川團十郎事務所」から、3月公演予定だったル・テアトル銀座での「オセロー」の断念のお知らせをいただいた。それだけに、4月、歌舞伎座再開場での存在感ある、充実の芸を期待した。

昨年末、天龍寺でのお礼と、「市川團十郎さんとの思い出」をブログに掲載したくて事務所にお願いにあがろうと訪問したい旨お尋ねすると、ご丁寧に「京都公演が終わる年末以降に」と、お返事を頂いた。その翌週、團十郎さん入院の報せを耳にした。
一時はブログ掲載をあきらめた。
しかし、「今だからこそ、團十郎さんにエールを送れば」とのひと声に、「そうだ、一刻も早い復帰を願って、これが微力ながらエールになれば」と信じて、市川團十郎事務所に「掲載ブログ構成」を送らせて頂いた。
なんと、翌日に掲載了解のお返事を頂いたのである。
有難いことに、團十郎さんは、本人も知らなかった「舞台白粉」の経緯が分かり、なにか感じる所があったようで、事務所から退院後の再会のお話も頂戴した。本当に嬉しかった。

常に、周囲の方々への感謝と気配りを絶やさぬ方で、あの日も「天龍寺龍門亭」での会食が終わると同時に、奥様と揃って出口に並ばれ、式典出席者全員に深々とお辞儀をしながらお礼を述べられていた。逆に我々が恐縮してしまうほどであった。

前回、「限りある命を精一杯生きたい」と言う話をしたが、早すぎる死は痛恨の極みです。

悲しくて残念なことですが、こうして私たちは常に「大切な人」を失っていきます。
私自身は「生きていくとは『死ぬ』までの時間をどう過ごすかだ」、と心に刻み、悔いの無い様に過ごしていければ良いのですが、人様に対しては、「もっとあの人にああすれば」とか「こうしてあげたかった」という後悔の念が消える事がないのです。

心配ばかりかけて、天国に逝った「おふくろ」には、未だに写真に向かって謝ることがあるくらいである。

ひとの命の想いは、自分が生まれたことへの感謝とともに、大切な人に伝える責任があると思っている。それぞれの身近に起こる「命のはかなさ」を実感する場面で、悔いが残らないようにしたいので、伝え続けようと心に決めている。

一昨年の11月、息子が通う小学校で「平和教育」授業をやらせていただいた。
4年生のときの担任の君塚朝子先の熱意と、保護者の人望も厚い高橋光法校長の後押しで、公開授業で子供たちに、「命の尊さ」を伝える場を頂いた。
今、教育現場で多くの課題が取り沙汰されているが、お互いが己の立場から少し離れて、子供の幸せに「全てのベクトル」を合わせれば良好な環境が作れるように思う。
以前暮らしていた「広島」の人たちも心豊かな方々で、我が家の子供は、相手の痛みがわかる先生と友人に囲まれて、素晴らしい小学校生活を送ることが出来た。
幸い、こちら浦安に戻っても私たちの周りはそんな人たちばかりで助かっている。
そして担任の君塚先生が、息子から広島でもひと際思い出深い「小学校の平和教育」を、聞き出して、実際にクラスの授業に取りこんだ。加えてそれを私に語らせるという、思いもよらない出来事に発展した。高橋校長を始めとする、まさに多くの方々が純粋に「子供の成長を願う」というベクトルの集結によって実現したのだと思う。

次回は、この時の出来事をご紹介したいと思います。68年前の「広島の原爆」の中で、焼け野原の中を生き抜いた「アオギリの木」、その枝別れをした苗木は多くの人たちに勇気と元気を与えている、という話です。
そして、それがあの東北の大震災で「福島原発で悩む地」にも、地元の方々に勇気と元気を出して頂きたいという願いを込めて植樹されていることを。
私は、2009年の春に東北の仙台から広島に引っ越しましたが、家族で暮らした仙台や仕事で訪れた東北各地の方々の温かい心は、今も忘れられない。

かれこれ10年以上前の本社時代から同じ街に住み、同じ部門でも働いた友人が、2010年、彼の地元である岩手の支社長に昇格し、嬉しそうに広島のオフィスに電話をくれました。「夫婦2人で、おふくろの待つ盛岡に行きます」との報告に、私は自分の事のように嬉しくて「頑張れよ」と激励しました。
その彼が未だに「行方不明」です。暫くは、彼の携帯電話で生声の留守電メーセージを聞けたので、望みを捨てられませんでしたが、昨年、彼の告別式に出席しました。
誰よりも熱血漢だった友を、失ってしまった無念さに涙が止まりませんでした。
残されたご遺族の方々のことを思うと心が痛みます。
お元気で心穏やかな日々を過ごしてくれることをお祈りするばかりです。

2011年3月11日、東北の大震災のことを心に刻みつつ、皆さまにもお伝えしたいと思います。
 
結びになりますが、
市川團十郎様、どうか安らかにお眠り下さい。そして團十郎様のご意志を継ぎ、成田屋の宗家、市川一門が更に力強く前進されますよう心よりお祈り申し上げます。
                        

2013年1月30日水曜日

京都・嵐山 天龍寺での市川團十郎さんに感激した。  (後編)



市川團十郎さん「聖マウリツィオ・ラザロ騎士団」ナイト称号受勲式

紅葉に彩られた天龍寺の庭園は息をのむ美しさであった。この世界遺産の庭園は、観る者を圧倒する。しかし、大方丈に現れた團十郎さんの姿は庭園に負けぬほど、オーラが漂っていた。血液型が変わってしまうほどの厳しい闘病、多くのご苦労を経て、舞台に立つ團十郎さんが、今、こうして同じ空間にいる。
そう思うと、普段はあまり人様の前で上がる事など無い私だが、さすがに緊張してきた。

実は、昨夜、苦労して作った原稿を横目で見ながらスピーチをやってみた。
「気負いすぎ。原稿を意識しすぎて全く面白くないし、貴方らしさが無い」
家内に一刀両断された。團十郎さんにお墨付きをなどと思っているうちに、棒読みのつまらない話になっていたようだ。
「よし、原稿を捨てて、いつものように自然体で話そう」と決めた。
そう(以前に話したが)「難しい事はやさしく、やさしい事は深く、深い事は面白く」だ。
私は、忘れてはまずい事だけを書いたメモだけを持ってその場に臨んだのである。

受勲式後の私のスピーチは肩の力が抜けて、いつもの「タナベ節」で、團十郎さんとご列席の方々のやさしい笑顔にも助けられ、「舞台白粉」の想いをお伝えできたようだ。

市川團十郎さんの受勲お礼のスピーチ

團十郎さんは、私のスピーチを受けて当初の受勲挨拶に無かったと思われるカネボウの「舞台白粉」に関する話を挿入し、返礼してくださった。
そこには「舞台白粉」に対する知見と愛情が込められ、同時に、支えてくださる全てのものに対する感謝に溢れていた。

スピーチは「役者にとって『化粧』はいのちでもあります」から始まった。
銅の酸化が緑に、鉛の酸化が白を生みと話し、白粉ができた歴史に触れ、現在の「舞台白粉」へと続いてカネボウ製品への感謝へと移る。
そして、私の話を受けて
「一時、カネボウさんが調子の悪かったときには、我々の『舞台白粉』を作ってくださらなくなるかもしれない、と心配をしました。しかしカネボウさんが製造を継続する英断をしてくれまして、現在も『舞台白粉』を使う事が出来ます。そのことに本当に感謝しております。歌舞伎の隆盛や市川一門がこうして舞台に立てるのも、カネボウさんのお陰でございます」
と、12代目團十郎さんが私に頭を垂れた。
思わず私も立ち上がり、その場で深々と頭を下げた。カネボウ人として感激した。

日本の「化粧文化」を伝承するんだという先人の想いが、この「舞台白粉」を絶やすことなく引き継いできて「本当に良かった」と思った瞬間であった。作り手として一番認めいただきたい方から「お墨付き」を頂戴したのである。



私たちの活動の目的のひとつに「日本独自の化粧文化の創造」がある。
そして一人ひとりの求める美しさを高め、「美しさの先に笑顔を」というカネボウの使命を再認識できた気がした。團十郎さんの笑顔は、私たちの「舞台白粉」を守る活動が、その目的へ向けて最高の役割を果たしたとの誇り、自信と勇気を与えてくださった。

「目的」と「手段」をしっかり意識する事はとても重要です。自分の行動が何の目的を遂行するためにやっているのかを忘れない事が大切で、「惰性」は手段を目的化してしまう。

月次会議で「市川團十郎さんのスピーチ」と事の次第を社員に紹介させていただいた。
私たちが何気なく行動していること全てにはちゃんと意味があり、多くの人々の工程を経て自分に回ってくる。自分が日々こなしている行動が、「何の目的」に向かうかを認識して活動することを忘れないようにしたい。
私たちの行動一つ一つを精査しながら、この時を過ごせれば最高である。

改めて、市川團十郎さん、成田屋、市川一門、そして歌舞伎の益々のご隆盛とご健勝を祈念申し上げます。
市川團十郎さんが現在、療養中ということを耳にし、とても心配しております。
常に、私共に夢と希望を与えてくれる「不撓不屈の團十郎さん」の一日も早い舞台復帰を心よりお祈りいたします。
                             

2013年1月17日木曜日

京都・嵐山 天龍寺での市川團十郎さんに感激した。  (前編)


最近めぐり会った方から、
「京都・嵐山にある世界文化遺産の庭園で有名な禅寺『天龍寺』に行きましょう。イタリアの初代国王を輩出したことで有名なイタリア王家サヴォイア家の権威ある『聖マウリツィオ・ラザロ騎士団』ナイトの称号を市川團十郎さんが受勲されます。その受勲式に列席しませんか」というお誘いをいただいた。



思わず「へー」と驚いてしまった。断る理由があるわけがない。「行きます」と即答した。

高鳴る気持ちを鎮めてこのお誘いをまとめるとこうである。
・「聖マウリツィオ・ラザロ騎士団」ナイトの称号を、歌舞伎界の大御所・市川團十郎さんが受勲するということ。
・受勲式は、古都京都の文化財として世界文化遺産の一つに登録されている臨済宗の禅刹「天龍寺」で開催され、紅葉染まる世界遺産の見事な庭園と市川團十郎さんを独占できるということ。
・受勲式後、天龍寺「龍門亭」で有名な精進料理の会食をするということ。

「聖マウリツィオ・ラザロ騎士団」のメンバーとして出席されたサンマリノ共和国駐日特命全権大使のマンリオ・カデロ閣下には、イタリアの小さな独立国家サンマリノ共和国の歴史と、街並みそのものが世界文化遺産であることを丁寧に教えていただき、由緒ある「聖マウリツィオ・ラザロ騎士団」の現在の目的は、貧困や病に苦しむ人々を救う事のほか、慈善活動への取り組みや、模範的生活を過ごし社会に貢献する事などもうかがった。
また、大使は相当な親日家と思われた。「聖マウリツィオ・ラザロ騎士団」のこれまでの受勲者についても、日本の皇室、文化、伝統芸術、社会に貢献された方ばかりで、前回は読売巨人軍永久名誉監督の長嶋茂雄氏、その前は米国のヒラリー・クリントン氏が受勲されたと説明してくださった。

以前、團十郎さんの著書『團十郎復活―六十兆の細胞に生かされて』(文藝春秋)を読んだ。血液型まで変わってしまったという白血病との闘病記であり、ご自身の信条、日常のエッセイなども綴られた感動的な一冊で、一気に読破したことを覚えている。
歌舞伎界をリードしてきた市川家の芸である「荒事」として圧倒的な存在感を持つ、あの團十郎さんにこの目の前でお会いして、話してみたいという思いが当然ながら募った。

が、そうした気持ちの一方に、私の中には別の「特別な理由」があった。この「特別な理由」を、受勲式の運営者である「一般社団法人 国際文化 和の会」の佐藤代表理事にお話しすると、「それは、素晴らしい話ですね」と感心し、是非「市川團十郎受勲式で披露してほしい」と。そして、受勲式典でスピーチをすることになったのである。

その「特別な理由」とは、「激動のカネボウの歴史」の中でもあまり語られることは無かったが、決して忘れてはならない出来事でもある。

カネボウ「舞台白粉」は11代目市川團十郎との共同作業で誕生

現在も市川團十郎一門に使用されている白粉の正式名称は「カネボウ『舞台白粉』ステージカラー」という。つまり我が社の製品である。先代の11代目市川團十郎さんと我が社が共同で作り上げた舞台用のおしろいなのである。

1954年(昭和29年)カネボウ「舞台白粉」が生まれる。この商品は6代目尾上菊五郎さんから依頼を受け、菊五郎さんが完成の5年前に亡くなり、團十郎さんが引き継いだと思われる。

その後、團十郎さんからの要請で現在の「カネボウ『舞台白粉』ステージカラー」が開発されたのが、1960年(昭和35年)のことである。カネボウ化粧品の母体である「KBK商会」から始まった「舞台おしろい」は、團十郎さんとともにカネボウが総力をあげて取り組んだ「開発テーマ」で、かなり高いハードルを超えねばならないものであった。

安心・安全は勿論の事、温度差や激しい動きにも崩れないといった機能的な面のクリアに加え、歌舞伎に最も大切な「隈取(くまどり)」のコントラストに重要な下地である「白色」の頂点を極めることが求められた。
このテーマを追求する開発者は出来上がった試作品を團十郎さんと幾度となくやり取りし、ようやく完成したとのことである。
團十郎さんはこの製品に満足されて、商品パッケージに歌舞伎座の緞帳模様が使用できるよう、関係者の方々から了解を取り付けてくださったという。「カネボウ100年史」に感謝文の記載がある。
こうして53年前に完成したカネボウ「舞台白粉」を、現在もご提供させていただいている。


数年前、激動のカネボウ時代に産業再生機構から「利益なき事業の撤退要請」があり、日本の伝統文化に貢献するこの商品にも存亡の危機が迫った場面があった。自前の直販体制が前提では、この商品を残せないとの判断から。
しかし、KBK商会時代の開発者の一人であった株式会社コスメティック・アイーダの会田会長に販売総代理店をお願いし、カネボウコスミリオンでの継続を可能にした。「日本の化粧文化」を残すという先達の苦心の賜物であった。

私自身、「舞台白粉」の歴史を調べてみて驚いたことだ。市川團十郎事務所にお届けしている商品にこんな歴史があろうとは思わなかったのだ。
歌舞伎座の緞帳をカネボウ繊維が作成した、映画界用のメイクには力を入れていたといった話を断片的に耳にしていたが、この「舞台白粉」はまさに11代目市川團十郎さんの「お墨付き」であったのである。

私は、12代目市川團十郎さんの受勲式でこの話を披露させていただき、そこで團十郎さんのお墨付きを頂戴できたらどんなに幸せかと思った。
「舞台白粉」が、市川團十郎一門の「縁の下の支え役」として存在でき、ご愛用者の團十郎さんに認めていただけたら、化粧の世界に身をおく者として無上の喜びなのである。