2013年12月24日火曜日

この1年の「出会いは人生の宝」を振り返る。


ここにきてようやく年の瀬を感じる。しかし年々、「師走」の慌ただしさや、忙しさを感じなくなってきた。ビジネスの世界では、ますますのグローバル化と、物流や情報の収集・伝達などのシステムが進歩、一元化されてきて、従来の「年末年始対策」などの必要性がなくなったので当然かもしれない。グローバル化が進んでいる企業は、国際会計基準の1-12月決算になっているので、経理部門は1月のほうが忙しいくらいだ。

庶民の生活様式も大分変わってきた。元旦から小売業は営業しているので、暮れの食料品の買い溜めも必要なければ、年始の挨拶回りも減ってきたことから、私が子どものころよく目にした母親の「お正月の着物姿」のための段取りや、美容院に行くシーンも遠い昔になった。ホームセンターなどの暮れの「大掃除用品コーナー」も、この時期より、春の進学・就職シーズンの方が忙しいほどだ。そして、お正月恒例の年賀状も変わってきた。賀状の交換だけになっても元気な様子がうかがえる年賀状を毎年楽しみにしているが、それも随分減ってしまった。若い人たちはメールでの新年挨拶が、主流のようだ。

しかし、手段はいくら変わろうが、この時期に1年を振り返ってお世話になった方々や新たに出会った方々に思いをはせ「心の財産の総点検と振り返り」は大切なことである。

「人生の宝」を深く、広く育みたい

私自身、この1年多くの方との再会と出会いに恵まれた。
仙台時代、広島時代に出会った方々との再会は至福の時間である。お互いの近況から始まり、当時の思い出に話がおよぶと、時空を超えてその時の情景やセリフまでよみがえり、音、匂い、味など、よくいう五感で共鳴するようになる。

これは新たな出会いの方にも共通している。
今回テーマにした「出会いは人生の宝」の気持ちが、「一期一会」の心境に近づけてくれ、お会いした方を「五感」で感じ取り、自分の中に浸透させることが出来る。

カネボウコスミリオンに来てからは、出会いの幅が更に広がり、ホームページでリンクさせていただいているお取引先様、異業種、新規事業の方々、海外でも台湾、サンマリノ共和国、中国、ベトナム、スペイン、韓国、ミャンマーなど数多くの方と、言葉の壁を越えて楽しいお付き合いが始まった。プライベートでも、娘のテニス、息子の柔道などの方々を通して、未知の世界をのぞかせていただいている。都度、ワクワク・ドキドキの連続で「明日への好奇心」満足度は自然に高まる。ありがたい限りだ。


当たり前だが、こうした夢のような「出会い」の継続の多くは、「また会おうね」「お会いしましょう」と約束できるからこそ、新たな楽しい思い出を膨らますことが出来る。

しかし、残念にも2度と会うことが叶わぬこともある。市川團十郎さんとの出会いはまさにそれであった。その時のわずかな思い出を噛みしめるだけで、思い出を膨らませることが出来ない。

「出会いは、別れの始まり」といわれるが、お互いに疎遠になったり、意見が合わずに決裂したりする別離なら、そこに自分の意志も入るので納得もいく。が、この世から去ってしまう別れは、あまりに無常で納得できるものでない。

思えば、昨年の11月、市川團十郎さんと京都で初めてお目にかかり、その存在感と人柄に触れて、私は團十郎さんの大ファンになってしまった。
60年来、私どもが「舞台白粉」をお届けさせていただいているご縁で、團十郎さんの「聖マウリツィオ・ラザロ騎士団」ナイト称号受勲式で、祝辞を述べさせていただいたことが始まりだった。
その際、團十郎さんからいただいた返礼は、感謝の念にあふれ、叡智に満ちたもので今でも忘れられない。



既にブログで紹介したが、あの日、私の「舞台白粉」の話を受けて團十郎さんが、「私どもがこうして舞台に立てるのも、カネボウさんのお蔭です」とおっしゃった。
「一時、カネボウさん、元気がない時がございましたが、私どもへの商品づくりを、英断いただき、本当に嬉しかった」と言われた時は、正直、涙が出そうになった。

この7月からカネボウの自主回収問題で、多くの反省を胸に、全社員一丸で信用・信頼回
復に向け活動中だが、改めて團十郎さんの言葉を思い返さずにはいられない。
年明けにお会いする約束もかなわなくなってしまったが、
あの言葉「カネボウさんのお蔭です」は私の心の支えの一つだ。

最早、團十郎さんとの新しい思い出は、望めなくなってしまったが、自分の中で「過去の思い出」を深めることは出来る。
あの日、『頑張ってください』とエールを送っていただいたと思っている。團十郎さんが私に与えてくれた大きな「人生の宝」だと心底思っている。

この出会いのご縁で先日、團十郎夫人と海老蔵夫人にお会いする機会に恵まれた。團十郎さんのお孫さん、勸玄さん誕生のお祝いをお届けすることが出来た。瞳を輝かせ、すこぶる元気なお子様の様子に私の頬もゆるんだ。
その夜、「團十郎さんはさぞやお孫さんを抱きたかったろう……」と思い、胸が熱くなった。團十郎さんの「無念」さは、計り知れない。

振り返るとこの1年、本当に多くの方々と出会い、叱咤激励の言葉も頂戴し、素晴らしい宝を手にした。感謝しきれない思いである。

このことを大切にして、新しく迎える1年も「人生の宝」を深く、広く育みたい。それが「限りある命を精一杯生きる」ことになる。宜しくお願い申し上げます。

皆様、本年も本当にお世話になりました。


田辺 志保

2013年12月9日月曜日

「昭和を懐かしみ、浅草でナイトフィーバー!」 

今、私のプチブームに「懐かし昭和」がある。巷でも東京五輪、三億円事件、昭和グッズなどよく取り上げられている。マイブームの発端は「三丁目の夕日」の映画だ。この映画、第3部まで製作されたほど人気があったようで、懐かしく楽しませて頂いた。
原作の漫画「三丁目の夕日」(作・西岸良平)は私も読者の一人だっただけに尚更である。その後、テレビ放映された映画を観ていた我が家の子どもたちにも評判が良かったのだ。確かに、内容的には昭和時代を全く知らない平成世代の人々にも受ける内容でもあるが、時代背景にもなる「向こう三軒両隣」という濃密な地域の繋がりや、「三種の神器」など理解不可能と思っていたので、少々驚いてしまった。
生活環境は異なっても、熱気あふれる恋愛物語や人情劇は世代を超えて共感するのだ。

団塊世代が「昭和」にひたる

そんな最中、ちょうど一昨年になるが、お取引先様に誘われて浅草ROXにあるコシダカシアターという劇場に出かけた。ここでは「シャボン玉だよ!牛乳石鹸!!」が上演されている。ファミリーマートプレゼンツで、株式会社アミューズ「虎姫一座」のメンバーが歌と踊りを楽しませてくれている。
昭和28年テレビが登場、街頭テレビから一挙に家庭に普及していった昭和45年の万国博覧会あたりの時代背景を、映像とともに振り返りながら、当時大人気のテレビ番組「ザ・ピーナッツのシャボン玉ホリデー」を再現していく、という内容のショーで、かなり完成度も高く優れたものである。


このショー、お客様がお客様を呼び、今でも、連日満員の盛況ぶりである。私が行った日も「団塊世代」を中心とした人々(今なお元気な元若者たち)で一杯であった。
19時開演の1時間前から1杯飲んでほろ酔い気分のお客様も多く、すでにテンションマックスの気配である。
「シャボン玉~」と曲が流れ出すと、皆さん一緒に口ずさみ始める。
昨日のことは忘れるくせに、あの頃の歌は覚えていて、歌詞がスラスラと出てくるから不思議だ。
懐かしのテレビCMソングコーナーというのもあって、静岡・伊東のホテルやカステラの老舗のCMソングは、全国ネットで流れたのだろう、知っている方が多いのにも驚いた。日曜洋画劇場コーナーなど面白企画が満載で、とにかくお客様を飽きさせない。
後半のザ・ピーナッツソングコーナーになると「恋のフーガ」や「銀色の道」など観客総立ちになっての大合唱であった。

出演している「虎姫一座」の面々がまた素晴らしい。若い世代のメンバーながら昭和歌謡を覚え、積み重なる練習を積んで、ショーのクオリティ―の高さに感動し、ひたむきに無我夢中で歌い踊る姿に、私はいっぺんで虜になってしまった。勢いあまり、その場で「虎姫一座ファンクラブ」に加入した。以来2年ほど通い詰めている。


その昭和歌謡レヴュー・ショーがこの夏、何と「1000回記念公演」を迎えた。もちろん観賞させて頂いたが、懐かしのグループサウンズを取り入れ、自分たちの生演奏で構成された企画であった。
当時、ビートルズやフォークに魅了されバンドの真似事をしていた私は、いきなりモンキーズの「デイドリーム」が始まると懐かしくて泣きそうになった。
一口に1000回というが、大変なことである。多くのファンが昭和を懐かしみ、虎姫一座の活躍に感激し、それを同世代の人たちに広めてくれた結果であろう。
「虎姫一座」のメンバーは、1000回公演に向けて昭和の文化や風俗を学び、当時の流行歌を何度も聞いて練習したらしい。そこで感じたことは、当時の歌が持つ「新鮮さ」や「魅力」だったと語っていた。

この劇場では、昼間の演目が「エノケン、笠置のヒットソングレヴュー」。こちらも「虎姫一座」が頑張っていて、シニアの皆さんで大盛況のようだ。
コシダカシアター劇場から出てくる満面笑顔のおじさん、おばさんを見ていると、浅草は「昭和文化」復興の聖地のような気がする。いささか大袈裟だろうか。

心に刻まれたことを大切にしたい

ここで、「昭和」を自慢するつもりはないが、確かにあのころはエネルギッシュで皆が同じベクトルだった気がする。2020年の東京オリンピック招致活動と決定に沸き返る反応は、まさにあのころを彷彿とさせる。
ネットや携帯電話もなくて、手紙と電話のやり取りこそが、憧れの彼女との繋がりの時代。
父親と先生が何よりも怖かった時代。町内の事は何でも知っている「名物おばさん」に怒られたことは1度や2度ではない。ケーキやジュースは特別な日の食べ物だった。
思い返すと今の自分にとって、全ての経験に価値があって貴重な出来事になっている。

私だけかもしれないが、単純な思考回路と価値観が幅を利かせていて、物事がシンプルで、大人たちも今ほど疲れていなかった気がする。
今は、一人一人の多様性を考慮するのが前提で、それぞれが複雑で価値観も異なるので、それに合わせ、慎重で気を遣うことが多い。あらゆる局面を想定して対処しなければならないから大変だ

身近なところでは、子どもの運動会の短距離走では決して順位をつけないし、運動会見学に来た家のひと(父兄ではなく保護者と呼ぶ)が持参したお昼のお弁当を食べることも禁止する学校も多い。
走る力の順位つけは「差別」につながる危険があるし、昼食も持参できない場合や保護者が来られない子どもに配慮するのも当たり前なのだ。
そうなると他にも多くの配慮が出てくる。たとえば息子の小学校では「学級委員長」が存在しない。誰もが均等に役割別の委員に属していて平等なのだ。一人一つの委員なので、兼務はない。各委員は団体活動の進行のためにあり、そこに任せるので、全体が見えにくく責任が分散される。
クラスを一つの方向に統率するのが大変だろうな、と心配してしまう。
少し寂しい感じだが、公平で差別を根絶することが最優先、となれば仕方ない気もする。

「虎姫一座」の熱心なリピーターの私は、その後もお取引先様や若い人たちとともに「虎姫一座」の元気な姿を見に行くが、皆さん喜んで頂いている。若い人からは「パワフルですね」とか「なんとなく懐かしい匂いがする」などの反応がある。


一つの歌が持つ「力」や「重さ」を感じるようだ。ラジオとテレビしか娯楽がない時代は、一つの流行歌が、ロングランで影響力を持っていた。我々の心に深く刻まれている。当時の曲を耳にして口ずさむことができるのはその証拠だ。
純粋にいろんなことに「夢中」になれた時代だったかもしれない。

「明日に好奇心」 忘れないように……

これからを生き抜く子どもたちに、昭和の文化や、己を手本にせよ、などとは決して言わない。私のような団塊世代の末席組は、我々の親たちの世代が築いた激動の時代に、便乗しただけかもしれないからだ。
しかし、私はこの時代に培われた価値観を知ってほしい、と思う。
「戦後は遠くなりにけり」とはいえ、物質的には決して豊かとはいえず、まだまだ貧しい人も多くて、服はお兄ちゃんのお古でズボンにはつぎがあたっていた。近所のテレビや電話のある家にはよくお世話になったものだ。だが、誰もが差別とも思わず共存していた。
根っこにあるのは、頑張れば「そのうちきっと良くなっていく」と信じていたからだ。

今の若い人が、ゲーム感覚の人生を送る。メール以外にあまり会話をしない友達と、「この世の中混沌として不満だらけ」とラインの仲間と語る。
ニート生活に疲れ、夢もなく、満足の状態が分からずに「ゲーム・オーバー」といってネット仲間と死んでいくのでは、あまりに寂しい。

私は、父親として、いつまでも元気で希望に溢れた生き方を子どもたちに見せ続けたい。子どもたちに「この時代のお父さんってかっこよかったんだね」と、言わせるホットな存在でありたい。
そのためにも、大いに昔話を語り、エネルギーを発散することである。

私も「明日に好奇心」を忘れないためにも、ギターに再挑戦するつもりである。
定年後は「おやじバンド」復活だ。そして、「はとバス昭和浪漫紀行」や「浅草ROX・虎姫一座」など、懐かしい「昭和」イベントに子どもと一緒に出かけたい。

オヤジのフィーバーぶりで、今度はうちの子どもたちが「今どきの若い奴はなっとらん」といって奮闘する大人に成長してくれたら、最高である。


2013年11月18日月曜日

息子の柔道から「道を究める」を学ぶ。

現在小学6年生の息子(勇斗・ハヤト)が柔道を始めて、1年が過ぎた。
広島で野球を始め、浦安に戻ってからも少年野球を続けていたが、太り過ぎでベンチを温めていたため他のスポーツもやってみたい、というので近くの柔道場へ見学に行ったのが始まりだ。

初めての町道場で、子どもたちが真面目に柔道の稽古に励む風景は、とても新鮮であった。そこで「武道」とは「自分自身を高めるために励むこと」が根本にあり、他人のためでも親のためでもない。だから練習でも「手を抜くのは勝手」「止めたい人は止めればいい」といった精神が基本にあると知った

今までの勉強やクラブ活動など全体主義では「止めたい」とか「努力を怠る」などは、いけない行いとして、叱られる対象であっただけに、やらなくてもいい発言に、最初は戸惑った。



その日も、技の打ち込みに励む子どもたちに向かって、小学生全体を指導する先生が、大声で「休みたい人は勝手に止めてもいいぞ、それは自分に返ってくるだけだぞ~」と気を抜いた子どもに声をかける。それでも変わらない子どもには「強くなりたくて一生懸命やっている他の子に迷惑だから、今日は道場から出て行ってくれ」と言っているのである。驚いた。

最近の子どもたちは、物心ついたころより宿題、試験に追われ、社会人になってもスキルアップや研修や試験にも追われ「挫折はできない」と競争社会を気負って生きることが多いので、道場の先生の言葉がとても異質なものに思えたのである。
勿論、こんな調子で柔道を教えるので、嫌になって稽古に来なくなる子はたくさんいる。

基本の受け身や、礼儀作法をみっちり教えるので、まずそこで挫折する。つまらないのである。それでも頑張って基本を習得して、やっと乱取りが出来る一般コースにきたら様相は一変する。

自分より年下で小さな体の先輩たちに、バッタバッタと投げられるのだ。息子も、1学年下の女の子に面白いように投げ飛ばされていた。最初はけっこう「心が折れる」らしく、稽古を続けられるか心配したが、周りの子どもたちの燃えるような闘魂に引っ張られるように、道場に通った。

不思議なもので、半年もしてくると投げられなくなってくる。野球のお蔭である程度、体幹ができていたのと多少の腕力はあったので、何とか互角に乱取りが出来るようになってきた。
当初から息子の指導に当たってくださっている先生は、「一つの技を極めさせたい」と息子に「大外刈り」を徹底的に仕込んだ。上背のある選手が得意とする技である。
自分より上背のある相手には、懐に入っての「背負い投げ」などの「かつぎ技」が多い。
息子の「大外刈り」を極めるための練習は、今も続いている。

息子はこの1年間、ひたすら「大外」をかけ続け、足の爪は4枚はがれた。両手は、組手争いで相手の手とぶつかり合うために、節くれ立ち、身長は9センチ伸び、体重は9キロ増えた。
野球も続けているので、運動量が激増し「ぽっちゃり型」だった体系は、身長163㎝、体重62㎏、アスリート体型へと見事に変貌した。



自分のためより、人のため、人の痛みに流す涙

先生は、初参加になる秋の千葉県学年別重量級の個人戦に的を絞っていたようで、夏以降「大内刈り」「内また」「支え釣り込み」など他のバリエーションも増やした。が、あくまで理想の「大外刈り」への連続技なのである。

先生は言う。
「まだまだ大外刈りは極めていません。最近は試合で組んだ相手も、彼の大外を警戒してます。半身を引いたり、組手を切ったりと、徹底的にかわしてきます。それをあえて大外で決めるのです。
組んでから半身を引かれる以上に回り込んだり、連続技から相手を崩して大外刈りへと、何通りかの大外刈りを身に着けることです。それを体で覚えなければ試合では生かされません。すべての技は、対戦相手によって一つ一つ違います。どんな相手にも見事に決まる大外刈りを完成させるには、一生かかるかもしれません」

一つの技を極めるとは、「気の遠くなるような繰り返し」から掴み取るしかない、と実感した。まさに自分との闘いである。そして指導する先生たちも、教えたことに対して真正面で応えようとする子どもには、我を忘れて子どもたちと取り組んでくれる。休み返上稽古の時など、自分の家族もあるだろうにと、頭が下がる。
そんな熱い先生方のお蔭で、息子は徐々に育ってきた。
畳の上では、先生にすべてをお任せするので、私と家内はただ見守るだけである。

最近では、勝ち負けの結果よりも、悔いのない試合をさせたいと思うようになった。
「勝って強くなるより、負けた分だけ強くなる」ほうが、強さに厚みが出る。
負けて泣く、悔しくて泣く、練習で泣く、こんな涙は自分に対して流す涙である。
考えてみたら、人は生まれた時より、オムツが濡れた、お腹がすいた、腹が立つといって泣く。大きくなっても同様で自分のための涙が多い。
自立し始めた子どもが、「人の痛みで泣ける」ようになれれば、と願うのだが、大人になっても、一生自分のために泣くだけの人もいる。



先月、息子は目指す個人戦の1週間前に行われた男女混合無差別の大会で、あえなく一回戦で判定負けした。柔道で初めて大泣きした。
涙の理由を知りたくて、「悔しいのか」と尋ねたら、喉をしゃくりあげ、頭を左右に振りながら「先生に、申し訳なくて 」と言って泣いた。
連携で交代して息子の面倒を見てくれた二人の先生へのお詫びの涙であった。
自分のための涙でなかったことに、私は、思わず息子を抱きしめてやりたくなった。

しゃくり泣く息子を、冷静に見守っていた先生が、ようやく落ち着いた息子に向かって言った。
「もう、すっきりしたか、いいかよく聞け。おまえは技の組み立てと掛け続ける姿勢が足りないんだよ」
「はい!」
「明日から、そこを直すために、練習するぞ、ガンガンいくからな」と、もう一人の先生が続けた。
先生は以前、「息子さんとの出会いは自分自身も変えてくれました」と私に言った。

翌日からの練習は、はたから見てもかなり厳しい練習になっていった。
道場での乱取り稽古の気迫は、組む相手にも伝染する。先生の指示で間断なく息子と組んでくれる中学生の先輩たちはその空気を感じ取り、今まで以上に真剣勝負で取り組んでくれた。
「あれだけ頑張る勇斗のために、俺たちも気合入れて相手になります」と私に伝えに来た。彼らも毎日毎日稽古を重ね、今や屈指の強さを誇る先生同様「柔道猛者」なのである。



こうして、息子は道場の先生と先輩、それを見守り続けた父兄の思いを背負って、翌週の千葉県大会に臨んだのである。結果は、負けた分だけ強くなれたようだ。

息子も私も「柔道猛者」の彼らから学ぶことが多すぎて、嬉しくて仕方ない。

人は「無我夢中」の姿に感動する

「私が私が」「俺が俺が」を捨て、我を忘れて打ち込む「忘我」になり、「無我」を極める。そして、道を極める「夢」に立ち向かうために夢の中に入り「夢中」の努力をする。
「無我夢中」。私の一番好きな言葉である。我々は無我夢中の姿に感動する。
柔道でも学問でも仕事でも何でも良い。とにかく「無我夢中」で取り組みたい。結果や妥協、打算など入り込めない、がむしゃらな姿こそ、何かを極めたいと思う人々に営々と引き継ぐ思想なのだと思う。
息子は、この先きっと「柔道猛者」を目指すだろう。「無我夢中」の姿を見て、いずれ後輩たちにも、「極めるための無我夢中」を引き継いでくれることを、私たちは信じている。


田辺 志保


立花克彦ブログ:尊敬する経営者とのお付き合い以外にも
「柔道家」としてもご指導いただいている方です。

2013年11月1日金曜日

「人を知るほどに好きになる」は本当だ。 

取引先様から、従業員さんやお客様向けに講演を頼まれることがある。好き勝手な話だが、次回の依頼も頂戴するので、喜んで頂いているようだ。



人は見た目で判断する

人は出会った瞬間、相手の値踏みを開始する。大抵の人は数十秒で、容姿、服装などで「あの人は感じがいい」と判断する。しかし「気に入らない」と決められたら、たまったものじゃない。

「人は見た目で判断してはいけない」と戒めるのは、人は見た目で判断するからだ。一度感じた印象は簡単には拭いきれない。概念・観念は、今までの経験と知見により、外観と物腰でその人を判断。職業や財布まで決め付けるから怖い。

因みに私自身、4年前まで90キロ超えていて、おまけにスキンヘッド。サラリーマンと思われず「怪しい奴」と思われて苦慮した覚えがある。

最初の冷静かつ批判的見方から、知り始めての変化を「熟知性の法則」、別名「自己開示の法則」として発表したのが、米国の心理学者ロバート・ザイアンスである。

「熟知性の法則」の3つの法則とは

1、人は、初めて会った人には、批判的で冷淡で攻撃的である。
2、人は、その人のことを知れば知るほど好感を持ち始める。
3、人は、その人の人間的側面を知った時、好感を持つ。

ザイアンスが『熟知性の法則』を発見した出来事を紹介したい。ニューヨークの地下鉄での事件を、皆さんも観客として読んでほしい。



ある日、地下鉄に男性と3人の子どもが乗り込んできた。お父さんらしき男と、12歳ほどの女の子、7.8歳と3歳ぐらいの男の子2人の4人連れ。地下鉄は通勤時間を過ぎ、座席は半分ほど空いていて車内は静かであった。ところが、この親子らしき4人が乗り込むや否や雰囲気は一変する。

下の男の子2人の行儀が悪く騒がしいのだ。走り回る子どもの傍らの父親らしい男は見ているだけ。お姉ちゃんらしい女の子もまるで他人事。

見かねた一人の女性が「子どもたちを静かに!」と男を咎めた。乗客全員が「そうだ!よく言った、何と非常識な親子」と思った。誰もが冷たく批判的なのは当然だろう。

咎められ事態を察した父親は、暫く沈黙し意を決したように口を開いた。「大変申し訳ありません。気が付きませんでした。…こんな話をすべきではないかもしれませんが、12歳の娘は普段は弟の面倒をよく見る子です」「入院している母親に代わって、頭が下がるほど家のことをしてくれます。どうか娘は責めないでください」父親は、静かに語り続けた。

「実は、先程入院中の妻が息を引き取りました。家族で彼女を天国に見送ることができました。6歳と3歳の息子は、久しぶりにママに会えたと喜んでいます。痛み止めのせいで眠るように息を引き取ったので『ママ、ぐっすり眠ったね』と喜んでいます。元気になると信じているようで」と父親は、はしゃぐ息子たちを見つめた。

「私は、息子の嬉しそうな姿を見たら『ママは眠ったのでなく、もうこの世にいないんだ』とは、どうしても言えません。今の彼らには理解できないかもしれません」

はしゃぐ子どもたちの声が車内に響く。

「私はこれからの事を考え塞いでいました。お恥ずかしい話ですが、息子の行動に気がつかず、すみません」父親の目から堰を切ったように大粒の涙。そして傍らの娘を抱きしめた。

「お姉ちゃんは、母親の死を理解してます。今まで気丈に振舞い、泣き言一つ言わず、家事を引き受けママの代わりをしてくれました。しかし、先程から下を向いたままです。普段は弟の面倒を良く見る娘です。彼女まで責めないでください」


親子を咎めた女性と居合わせた車両の乗客は、その時こう思ったのです。「この親子に、我々は何か出来ないだろうか」と。まさに、最初の批判的、攻撃的な感情が一転し、同情から愛情までを、この親子に抱くのである。

これが「人は、その人のことを知れば知るほど好きになり、その人の側面まで知ると好感を持ってしまう」という、ザイアンスの法則である。

未だに、通りすがりの殺傷事件が後を絶たない。自分の感情だけで攻撃する。もしその被害者が、一人息子の誕生日を祝う為、家路を急ぐお母さんと知っていたら犯行に及べるか。きっと「相手を知る」ことで、人は優しくなれるはずである。

「嫌な人」とは知らない人のこと

私達は、仕事でもプライベートでも必ず苦手と思う人がいる。どうも気が合わない。自分のことを判ってくれない。いちいち癇に障るひと人。

憎い・妬む・嫌いの前提は、相手の本質を知らない事が殆ど。表面的には知っていても、本質や真実は知らない。無論、それは相手も同じで相手と鏡のように呼応する。

そこには「優しい気持ち」は存在しない。これは「自己開示の法則」とも言うが、この本質は、自分を開示して好きになって貰うのでなく、相手を開示させて、その人を好きになるということ。すると、こちらの自己開示に耳を傾けてくれる。

マネジメント手法に「積極的傾聴」がある。深く聞き取ると、マニュアル応酬を超える。部下の成功報告を聞く時は、何処を褒めようか?と思いながら聞き、逆に失敗談なら、どこに課題があってどう対処するか、と考えながら聞く。

私は、疲れて帰宅しても、家内からその日の出来事を根掘り葉掘りと聞く。面倒くさいと思ってはいけない。そのうちTVのホームドラマより面白くなってくるから。

全ての人でなく、せめて周囲の方々は好きになりませんか?の話だ。そして、新たな出会いは意図的に相手を知り、好感を持った方が楽しい筈。

そうなればしめたもの。知人が友人となりファンへとなり、そして最後は「サポーター」へと素敵な仲間が増えていく。嫌な奴や、苦手な奴より、楽しく素敵な方の思い出だけ残したほうが、健康にも、精神的にもよっぽどいいじゃないか。

この夏を振り返りながら、以前「女性の魅力とは」をテーマで話した「ザイアンスの法則」を今一度思い返してみた。
                               
田辺 志保

2013年10月15日火曜日

漢字語源研究者・刻字家の高橋先生の教え。(後編)

志保」の漢字の意味を知って、私は変わった


高橋先生との出会いによって私が「志保」であることの意味を掴んだ6年前の出来事を紹介したい。その日、先生は「漢字」の歴史や「漢字」のもつ本来の意味などをわかりやすく話し始め、私はだんだんと古代文字の説明に引き込まれていった。

代表的なものに、子どもにつける名前がある。中には、ひらがなの名前もあるが、ひらがな自体、そのもとになる漢字がある。先生はそんな説明をしながら、私の名前をハガキ大の「書」にしてくださった。初めて目にする「志保」。びっくりした。従来の字とは全く異なる文字で書かれていた。何故、この字かの意味を受けて更に驚いた。


「志保」は普通、男の子には見られない。私は幼稚園の頃「幼少期の名前」と思っていて、大人になれば変わるものと信じていた。しかし未だ58歳の「志保」である!女性と間違えられることも少なくない。確かに違和感はあったが、気に入っていた。そして、この漢字の本質的な意味から、自分の名前の「使命」のようなことを知ることになった。


「志」  
この字は、上の部分の「士」と、下の「心」が組み合わさってできた字である。
「士」とは、人が地面の上を2本の脚で歩いている姿を指す。
「心」は、人の心臓の形を表す。
つまり、「歩いている方向」と「心・思い」が同じであることを表現しており、これを、「志す(こころざす)」という。
こうなりたい、と思うだけではダメで、実現に向けて、行動して、歩み始めてこそ「志」と呼べるのである。


「保」
「イ」と「呆」の組み合わせ。
「呆」は頭の大きな人の姿を表している。頭の大きな人とは、子どものこと。つまり、まだ成長過程の子どもであり、その無邪気で奔放な様子を指して、「呆れる」と読む。子どもの傍らで親しみを込めて、支える人(親や師、友など)が上から横から見守っている姿を「イ」で表す。

「人を育み、成長させること」に対して、身も心も同じ方向で行動する姿である。「志保」という字はこの姿を表しており、まさに人材育成をやり遂げる名前になる。

全国の流通担当や販売会社の時代、周囲から「優秀な営業軍団」と言われ、営業力やマネージメントの評価はあったが、「身も心も人材育成を背負っている」という表現は、お目にかかった事がない。正直驚いた。人材育成部門の役割のようだが、「人の成長と会社の繁栄は、両輪をなす」と考えると、本質が強く腹に落ち「自分の使命」と思えたのだ。

古代中国、象形文字として生まれた「漢字」は、その本質的意味を抱えながら、当時の人々の想い・哲学・感情などを凝縮させ、古代日本の人々の想いや心模様が重なり合い「漢字」として出来上がっているという。この悠遠な3000年の記憶が、残り香のように漢字一つ一つに立ち上がっているといえる。

「名は体を表す」

高橋先生は、「人は自分の名前を背負います。約95%の方々は『名は体を表す』は本当のことです」と言う。95%以外の残り5%の方はと不思議に思って尋ねると、
「背負わないのではなく、語源の意味を解明できないのです。たとえば『音』や『画数』から、当て字をあてるとか、外国人の名前を当て字にした場合も解明困難です」と。確かに、あとづけの漢字だと、語源をたどっても説明が難しくなりそうだ。

ひらがな・カタカナは、もっと面倒かと思うが、大丈夫という。それぞれ、元の漢字があり、その語源を語るそうだ。そもそも「ひらがな」は草書体であり、速記によって簡略化された字なので「あ」は「安」、「い」は「以」から変化した字だそうだ。
「カタカナ」は、というと、「片カナ」とも書き、漢字の一部を採って作られた字である。「ア」は「阿」の左片方の変形、「イ」は「伊」の片方である。

したがって同じ名前の愛ちゃん・あいちゃん・アイちゃんは、3人とも背負う語源が異なることになる。

先生は「名前の解説を始めたころは、漢字の名前に比べて、ひらがな・カタカナ名前は難しいなどと思った時期もあったが、多くのひらがな・カタカナの名前に出会って、元の漢字を組み合わせると、素晴らしい語源の名前が多い」と。そして「不思議と、組み合わせが素晴らしいのです」と感心されていた。

漢字を名前に使用する場合は、語源から見て名前に相応しい漢字が多く、相応しくない漢字を使用の名前は気の毒になる。「ひらがな」も「カタカナ」もその字にたどり着くまでに、厳選された漢字が転化されて、名前にも相応しいものが残ったのかもしれない。

色々と書いたが要は、私たちの名前は一文字一文字にその成り立ちと意味をもって、出来上がっているということ。親や祖父母など名前を付けた人々がその語源を完全理解しているとは限らない。父親に「志保」と名付けた心中、いきさつを聞いたら、
「政治家だと投票しやすい名前であり、何より好きな本のヒロインの名前であり、実は女優の藤村志保も好きだった」と言われた。「好みのオンナかよ」と言った記憶がある。

しかし、命名の経緯より、自身の名前の本質的理解が重要なのだ。古代漢字の語源に遡ることだけが、本質ではない。自分の名前を付けた人への感謝とともに、わかる範囲でその意味を前向きにくみ取り、自分が背負う、気構えが大切だと思う。

私は「志保」の名に恥じぬよう、縁ある人々の成長に役立つ生き方が出来たらと思う。自分が得たことを、語り継ぐ「伝承者」になれれば最高である。しかし「伝承者」になるには、あまりに自分は未完成。自己啓発の努力も、人間力も中途半端。人としての成長は、生涯の課題であり、終わりのない使命なのだと思う。

あなたの名前には、どんな意味、想いが秘められているのだろう。

田辺 志保

2013年10月1日火曜日

漢字語源研究者・刻字家の高橋先生の教え。(前編)

「己が背負った『名前』を全うする」

常々、「出会いは人生の宝」と語らせて頂いているが、今回は6年前からお世話になっている刻字家(こくじか)・高橋政巳先生を紹介したい。




高橋先生は、福島・喜多方で、楽篆工房(らくてんこうぼう)を運営されていて、時に楽篆家(らくてんか)ともおっしゃる。先生の決して尊大にならず、控え目で自分を見失うことなく、絶えず正しい行いを常としている姿を人生の様々な局面で必ず思い出す。

多忙を極め、めったにお目にかかれない人だが、今回は福島支店長の井上さんと一緒に、高橋先生ご夫妻とお話しする機会に恵まれた。お互いの近況報告、漢字の話、漢字のまち、喜多方の町興しの話、人生の話、友や家族の自慢話へと尽きることはなかった。

「刻字家」「楽篆家」と言ってもお分かりにならないと思うので、先生の著書『感じる漢字』(扶桑社)のまえがきを引用させていただく。

「古代漢字に魅了され、私は『楽篆家』と名乗っている。刻字といって木や石に文字を彫ったり、書で書いたり、古代漢字の書体の一つである篆書(てんしょ)を楽しみながら表現している。だから楽篆家だ」

高橋先生は「古代中国の漢字」研究の第一人者で、刻字家として古代文字の語源をひもとき、それをデザインし「書」と「刻字」に表す希少な方である。
古代中国3000年以上の歴史をもつ漢字。古代漢字一文字一文字には、古代中国の人々の想いや感情、哲学など「心の在り様」が凝縮して形成されており、それが日本に渡り、古代日本の人々の想いが重なり合って「日本の漢字」として独自の変化をし、今日生き続けている。

先生によると、日本の「書」では、まず全体のバランスを見て構図を決めていく。構図を決めたら、何回も何回も書き込んで、「書」としての形を作る。そして、本番で「書」を完成させる、この流れが多いそうだ。これは、紙が豊富にある日本ならではのスタイルのようだ。
一方、中国では、古来より紙は貴重品であり「書」と言えば、その場で、決して書き損じることなく、与えられた1枚の紙の上に一気にデザインするのが書道家の姿と聞いた。

語源を確かめながら、先生の古代漢字で書かれた「書」を眺めると、漢字のもつ知恵と美しさに引き込まれてしまう。

学校の「漢字教育」に、高橋先生の古代文字研究に基づく語源や、形の意味などが、採用されるという話も伺った。ニューヨークでも「漢字の個展」を開き、外国にも多くのファンをもっている。

当初から気取ったところがなく、故郷の喜多方と、笑顔が素敵な奥様をこよなく愛し(今回の再会で痛感)、時代に流されること無く、常に謙虚な姿勢、物腰が丁寧で、とても誠実な方で、お会いした時から、私も大ファンになった。

「感じる漢字」

思い起こせば、先生の古代漢字の「書」に魅せられ、東北時代から社員の達成記念品や、大切な方への贈り物、出産祝いなどに、先方様のお名前を「額入りの書」にしていただいて、購入し、プレゼントしてきた。そして、多くの方に喜んでもらった。
我が家にも、家族4名の名前入り「書」と「会津塗の箸」、夫婦の「飾り扇」がある。もうこれは、田辺家の家宝である。


古代文字で書かれた「額入りの書」は、今までに見たこともなく、漢字の語源を知ったうえで眺めると、先方様は決まって感激する。
そこで大事なことは、私が、いかに正確に先生の漢字分析を伝え、その文字のパワーごと先方様に感じ取っていただくか、ということである。事前の私自身の勉強がモノをいう。

以前、こんな話があった。親子で名前に「愛」の字を使われていた方がいらして、「愛」の字をさらに深く知りたくなったので教えてほしい、と言われた。
朝早くか夜遅くなのかは忘れたが、随分失礼な時間に電話で、突然尋ねたことがあった。
「高橋先生、もう一度『愛』の字のもつ意味について、詳しく教えて下さい」
実は、その時、先生は講演のため移動中であった。にもかかわらず気分を害した様子ひとつみせず、空港の待ち時間に携帯電話で折り返していただき、スラスラと応えてくれた。

「愛」の字の語源である中国での解釈と、日本に伝わり変化してきた「愛」の解釈の違いを教えていただき、先生の驚異的な知識量と、素晴らしい解析に、「愛」のもつ力と歴史に感激してしまい、暫く仕事が手につかなかったほどである。
先生から学んだ一部をご披露しよう。

身も心も動きがとれないほど切ないのが「愛」

「愛」という漢字の形は「後ろを顧みて、たたずむ人の姿」と「心」の組み合わせで出来上がっている。これは身動きがとれない姿を形にしたものでもある。
古代中国の人々は、立ち去ろうとして後ろに気持ちが惹かれる思いを「愛」と表現した。
「いとおしむ」「いつくしむ」の思いだ。この人がいなければ、いられない、去りがたい、という存在が「愛」という漢字になる。
愛する人を得ることは人生の幸せだが、愛される人にもなりたいと思うばかりだ。
詳しくは高橋政巳先生の『漢字の気持ち』(新潮文庫)や、『kanji no kanji』(扶桑社)などを手にしてほしい。
感激すること間違いなしである。



そんなわけで、作品が届くたびに、根掘り葉掘りと尋ねる私の一方的な電話に、都度丁寧に対応いただき、逆に「田辺さんの熱心さが嬉しい」とおしゃってくれる。そんな高橋先生には深く感謝している。そして、奥様にはもっと感謝している。

いつも優しくまわりに目配りされ、先生を上手にコントロールされている!?
私のブログもチェックして、伝えていただいているようで、私がざっくばらんに先生と会話ができるのも奥様のお力添えがあってのことと思っている。

私は高橋先生に出会ったおかげで、自分が背負っている「名前」の意味を理解し、そこから自分の使命感を知ることが出来た。自分の生き方や、人とのお付き合いも少し変わった。「人生の幅」が広がった気がする。プレゼントした多くの方からも、高橋先生の「書」によって、「自分の可能性や感謝の心持ちが変わった」などと、嬉しい言葉が届いた。


田辺 志保
 

2013年9月27日金曜日

ブログの更新を再開させていただきます。

今般、カネボウ製品をご愛用いただいている皆様、お取引先様に、多大なご迷惑とご心配をおかけしております。
私ども、カネボウコスミリオン(株)の製品では、今回の自主回収成分を使用しておらず、お客様に直接的被害はありませんが、日ごろから当社の製品をご愛用いただいている皆様、お取引先様には、ご不安、ご懸念が生じたことと思われます。衷心よりお詫び申し上げます。

そうした中、お取引先様はじめ、多くの方々より、心あたたまるお言葉に加え、ホームページ・社長ブログの更新を心待ちしているなどのお声をかけていただき、また、変わらぬお取引、さらには新たなご依頼を頂戴するなど、皆様のご厚情に励まされております。

社員一同、皆様のご芳情に対し、厚く御礼申し上げます。
これからも一路邁進いたします。倍旧のご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。  
 
カネボウコスミリオン株式会社
代表取締役社長  田辺志保

2013年7月26日金曜日

カネボウコスミリオン株式会社からのお知らせ

平素は格別のお引き立てを賜り、厚く御礼申し上げます。

既にご存じのように、現在、株式会社カネボウ化粧品が美白商品の自主回収をさせていただいております。私どもカネボウコスミリオン株式会社は子会社ながら、多くのお取引先様とお客様に、ご迷惑とご心配をお掛けしております。心よりお詫び申し上げます。

カネボウコスミリオン㈱としても、お客様対応や電話対応等に協力していく所存です。
尚、当社が製造している全製品には、今回の自主回収対象成分「ロドデノール」を使用しておりませんので、安心してご使用下さい。

私どもカネボウコスミリオン㈱は、この問題を真摯に受け止め、今一度、「お客様第一主義」「品質第一主義」を肝に銘じ、商品開発とお客様対応に取り組んで参る所存でございます。

何卒、倍旧のご支援、お引き立てを賜りますよう、宜しくお願い申し上げます。


2013年6月28日金曜日

「舞台白粉」物語 カネボウの軌跡(後編)

第11代團十郎さん(以下、敬称略させていただきます)とカネボウが作り上げた「舞台白粉」の製造・発売秘話を紹介したい。舞台・映画全盛期にあわせ、舞台白粉、舞台化粧が進化を遂げ、今日の礎を築いた人々の物語である。



「舞台白粉」商品化は、歌舞伎の大ファンであり、常々品質の良い白粉の開発のために試行錯誤していた、ケービーケー(KBK)商会創立者の丸岡文平社長と、11代團十郎との出会いから始まった。両者の思いが一つになり、「最高の舞台白粉」プロジェクトは動き始めたのである。
その推進部隊の責任者がケービーケー(KBK)商会の研究所の常光敏治技師長である。カネボウ化粧品の名技術者として知られる方で、彼が「團十郎・舞台白粉」の処方を手掛けた。残念ながら常光さんは亡くなられているが、当時の常光チームに角田さん(後の中原工場長)と会田康二さんがいらした。会田康二さんとは、現在もおつき合いをさせていただいている。(株)コスメティック・アイーダの会長として、以前ブログでも紹介した「舞台白粉」「ステージカラー」の総販売代理店をお願いしている方でもある。



会田さんからは、丸岡さんや常光さんとの思い出を数多くお聞きしたが、舞台白粉づくりに話がおよぶと「練白粉の要は『混合の技術』にあり、常光さんの下で、特に練りこんでいくローラーの作業に、細心の注意を払ったことは忘れられない」と話してくれた。

後の團十郎との「舞台白粉」、團十郎の「色」と「持ち」を追求した白塗りの「カネボウ・ステージカラー舞台白粉」の成功に貢献することになるのが、完成の6年前、1956(昭和31)年4月に発売したステージ用ファンデーション「カネボウ・ステージカラー」である。温度差にも崩れないというのが他社に負けない特色である。

当時ファンデーションはマックスファクターのスティック状油性白粉「パンスティック」が主流であった。一般的にスティック状油性白粉は、夏仕様は冬に固まり、冬仕様は夏溶けてしまうという課題があった。常光さんはそれを「チクソトロピー理論」(粘度ある物質の分散系の時間依存性)を応用して年間使用を可能にし、全国一斉にカネボウ化粧品の販売ルートで発売したのである。

同年7月、日本色彩研究所と協力して、カラーフィルムにおいて肌色が再現できる原料配合を開発し、テレビ・映画・演劇用ファンデーションを完成させたのである。NHKでの使用を皮切りに、多くのテレビ局と映画界に使用されていった。日本のファンデーション普及の先導役を「カネボウ・ステージカラー」が担ったともいえた。

「カネボウ・ステージカラー・舞台白粉」は、11代團十郎のお墨付きをいただき、全国のカネボウ販売ルートで取扱いをしていた。歌舞伎や舞妓さんの舞台白粉市場はもとより、舞台・演劇界、映画界などのステージカラー市場は、そんなに大きくなく、事業としては厳しいものがあり、やがて他の大手メーカーが軒並み撤退していった。
こうした大手メーカーの生産中止は、小規模とはいえ業界内での供給が滞る事態を招いた。

京都でその話を耳にしたカネボウは「舞台白粉」の生産を止めるどころか、安定的生産を目指して協力会社「紀伊産業」とも相談し、カネボウ鴨宮工場での「舞台白粉」の生産開始を決断した。今から18年前の1995年のことである。

当時のことを、鴨宮工場の棟方邦彦さんに教えていただき、驚いた。
「舞台白粉」生産にあたり、あらゆる最新の化粧品生産技術と機械化を試行したという。
ところが、いくら試しても「舞台白粉」は粘度が高く現在の混合技術仕様の機械は使えない。「とり餅」のように引っ付いてしまいどうしてもうまくいかない。

最終的に彼の出した結論は、「原点に返り、手作りにする」ことであった。独自の杵を作りローラーにかけて練る。そして出来上がった「練り白粉」を一つ一つ、手作業で箆(ヘラ)を使い容器に詰めていく。効率最優先の今、なんという非効率な作り方であろう。



その「手作り」の決断から分かったことは、そもそも「舞台白粉」が、一つ一つの手作業、手作りによって完成されていて、残念ながら如何に技術が進化しようが変えようがないということであった。

11代團十郎とカネボウが作り上げた「舞台白粉」は、当初から多くの影の力を得て、半世紀を超えて今なお、処方だけでなく生産工程についても全く変わることなく生き続けていくことになったのである。現在、「舞台白粉」から「ねり白粉・ピンク」「ねり白粉・白」の2種類も加わり多くの演劇・映像関係者にご愛用いただいている。これらは、すべて「手作業」である。

團十郎の「舞台白粉」の歴史を振り返ったことで、当時カネボウが「フォアビューティフル・ヒューマンライフ」、「芸術化産業のカネボウ」として消費者や社会に貢献することを標榜していた頃の一端を知ることが出来た。
その後、2003年、カネボウは、産業再生機構入りし、一時は生産を諦めるところまで追い込められたが、幾多の危機を乗り越えながら、周りの人々の理解と協力によって「舞台白粉」の伝統、そして「フォアビューティフル・ヒューマンライフ」、「芸術化産業のカネボウ」を守ることが出来たのである。

「価値あるものは、滅びない」

どんなに時代が変わり、環境が変化しても、変えてはいけないことがある。ビジネスの世界では「損か、得か」が幅を利かす。個人的な人との付き合いは「好きか、嫌いか」が幅を利かす。世の中は「善か、悪か」が幅を利かすのだろうか。しかし、よく考えると、すべてが曖昧な物差しに思えてくる。価値観が異なる人々とのやり取りには、明確な答えなど無いのだろう。

「舞台白粉」にかけた11代團十郎の「色」と「持ち」への並々ならぬこだわり、それを製品化したカネボウの研究陣、それを手作業で作り続ける生産の人々、その人たちの「思い」を察すると、皆さんが同じ価値観を持っていることに気付く。前にもお話したが、京都で「舞台白粉」の歴史を知った12代團十郎さんが、声を絞るようにして感謝の気持ちをあわらしてくださった。11代團十郎をはじめ、「舞台白粉」にかかわるすべての人の価値観が共鳴したようであった。

人への優しさに溢れた亡き12代團十郎さんの心は「歌舞伎を愛し、市川一門を愛する方々に、いつまでも喜んでいただける」ことに、「最上の価値」を置いていた。
だから「市川團十郎」の唱える価値を、共有・協働できる人々は、全てが仲間だと思う。


我々が求め続ける「お客様の笑顔」とは、自分を取り巻くすべての「人」や「こと」にも通じる。もう一度自分に言い聞かせながら、「出会いは人生の宝」を噛みしめた。


田辺志保

2013年6月4日火曜日

「舞台白粉」物語 カネボウの軌跡(前編)

少し前、私のブログで昨年お目にかかった市川團十郎さんとの思い出を掲載したところ、最近、多くの方から「舞台白粉」のことを質問される。
歌舞伎ファンと市川一門を贔屓にされている方々には「舞台白粉」も気になるようだ。

京都での出会いは、友人の佐藤さんが取り持ってくださったご縁の席上で、私どもが團十郎事務所に「舞台白粉」をご提供させていただいている不思議を披露させていただいた。

舞台白粉は、「どのような商品で、どうやって使うのか?」「歴史は?」「どこで、いくらで売っているの?」など、お知りになりたいようである。
実は私も、京都でのスピーチのために「鐘紡100年史」を読み、当時のことを知る先輩諸氏から教えていただいて分かったことがたくさんあった。
折角なので、その時に「舞台白粉」で分かったことを、紹介したい。

「舞台白粉」の歴史

カネボウ化粧品は、120年前の「鐘紡(鐘ヶ淵紡績)」から始まっている。その名前から分かるように、もともとは繊維の会社である。1954年、化粧品を生産するケービーケー(KBK)商会という会社を設立し、本格的にカネボウ化粧品として動き始めた。
当時は、映画・舞台が全盛であり、カネボウは品質第一主義をモットーに歌舞伎・映画を始めとする各層の著名人の協力と援助を得て、ステージカラーという商品を作り上げていく。
このノウハウが他社に負けない特色となり、今日のカネボウ化粧品へと続くのである。

この年に、歌舞伎6代目菊五郎の要望で「舞台白粉」を完成している。
9代目市川團十郎は、菊五郎に芸を仕込み、東京歌舞伎座での6代目菊五郎襲名の「後援」もしており、その関係は深かったようだ。

その後、11代團十郎から「さらに品質の良い舞台白粉を」という要望に応え改良品の共同研究者として、製品化に尽力いただいた。この完成が1960(昭和35)年のことである。当時、80グラムで300円という価格であった。
現在の「舞台白粉」は130グラム、2000円(税抜)で、舞台化粧専門のお店で売られている。
個人使用でない團十郎事務所には、業務用の1キロサイズでお届けしていて、これは一般の方の商品と違い、歌舞伎座の緞帳模様も何もないシンプルなものである。



安心の舞台白粉を目指して

その昔、「白粉」おしろいには鉛が使用されていた。鉛中毒で胃腸病、脳病、神経麻痺などを引き起こす事例が多く、日常的に使用頻度が高い舞台俳優はその病症が顕著であった。
肌にも表れる「ドウランやけ」の状態は役者にとって大きなダメージであった。
1934(昭和9)年に、鉛を使用した白粉(鉛白粉)製造は禁止されたが、鉛白粉のほうが「美しく見える」と、まだかなりの需要があったとのことである。

團十郎とカネボウは、この悩みを「解決したい」と考え、「肌に安心な商品」だけでなく鉛白粉より美しく見える舞台白粉を目指した。また「練り白粉」は温度差に左右されないものでなければならない、という大きな課題も抱えていた。
舞台の特殊な照明、激しい動きにも崩れない。だからといって、固まったり、のびが悪かったりしては駄目。舞台照明に映えることはもちろん、歌舞伎の「隈取」(くまどり)のコントラストの重要な下地の「白色」の頂点を極めること。
動きの速い「荒事」をお家芸にするだけに、團十郎の求めるものは限りなく完成度の高いものであった。
「鐘紡100年史」に、「製品化に至る過程では、團十郎の厳しい要請と、度重なる試作品のやり取りがあり、製品化には苦労と困難があった」と、記されている。

激しい気性であった11代團十郎と、当時のケービーケー(KBK)商会の研究陣との激しいやり取りを経て、團十郎の執念が「カネボウステージカラー・舞台白粉」を世に送り出したのである。
あれから53年経って、今なお市川一門の舞台白粉として、愛用されているのである。

照明や太陽の下でも「肌の色」が映える、汗や皮脂にも崩れない、温度差に強い、そして何より安心・安全である、この課題に團十郎とともに取り組んだ当時のカネボウの技術が、その後のファンデーションづくりに生かされていることは、言うまでもない。

私は、化粧品づくりに身を置く一人として、團十郎とカネボウが総力を結集して、「舞台白粉」を完成させ、これが日本の伝統文化を継承することに、微力ながら貢献できることを「誇り」に思う。
(敬称を略させていただきました)  


田辺志保

2013年5月2日木曜日

「グローバルな人材」を考えたら「人間力」に行き着いた。

娘がこの春高校1年になった。制服に身を包み、期待に胸を膨らませ登校している。
真新しいスーツ姿の新入社員が、集団で電車に乗り込んでくる場面にも出くわした。この時期、多くの人が新たなスタートを切ったことだろう。夢一杯の彼らが、2か月目辺りから、やっと入った学校や職場が、自分が思い描いていた所と違うなあと感じ始める。「これが現実」と割り切ろうとしても、悔しくて気が重くなる。俗に「5月病」だ。

「思い通りにならない」は当たり前と思うこと。

そもそも「こうなる筈が、そうならない」という状態は常態化していているもので、そのストレスをどう克服するかである。「まあ、いいか」はストレス回避にはなるが、それは「倦怠」や「諦め」という副作用を引き起こす。その結果「ここは、不向きだ」となる。

だが、結論を出すには早すぎる。縁あって入った学校や職場が、まだまだ、どんな所で他にどんな仲間かを知らないままだ。勿論、環境を変えることは悪いことではない。ただ同じ轍を踏まない為にも、新しい仲間がどんな人たちで、何を思い、何を目的に働いているのかを、少し時間をかけて観察してみよう。人生は長い。

若い人には聞きなれないかもしれないが、昔から「石の上にも3年」と言われ、そのくらいの経験が必要で、性急に判断するなということだ。グローバル化が進み、生涯雇用、年功序列などの昔の「会社に奉公」とか「上司、先輩は神様」の発想はなくなっているが、現代のグローバル化でも共通な「夢を持つ大切さ」や、「ミッション」「コンセンサス」「チーム」というワードは大切で、今も昔も同様に言われており、本質は同じである。

海外の方とビジネスしていても、相手先様の所作や言葉の違いはあるが、個人が醸し出す「人間力」「魅力」のオーラは万国共通である。外見や、態度など全く関係ない。それでも気になるときは「概念が生み出す間違った判断」と思ったほうが良い。

2年前、カネボウコスミリオンという会社に来て「一体この会社は何をする所だろう」と思った。一貫して、決まった流通にカネボウや花王の商品をいかにして売るかを業務として歩んだので、「未知の取引先専用のオリジナル化粧品づくり」というOEM概念がない。
「自分が分からないのだから、他の人はもっと分からないはず」。それが、昨年会社のホームページの全面刷新と、ついでに「社長ブログ」まで開設した理由である。

最近、そのホームページに海外からのアクセスがあるようで「社長ブログ」も英語版で加えようという話しが出た。英語は全くの「素人」である。大学まで英語の授業は存在したが、恥ずかしい話だが全く身についていない。

海外でも、私はすべて「日本語」で通している。中途半端に稚拙な英語を使い、誤解でもされたら大変である。いつもの調子の日本語で、相手の目を見て、気持ちを込めて話しをしている。すると、お互いが自国語で話しても、コミュニケーションは、ちゃんと成立しているものだ。そんな話をしていたら、「それは、あいだにいる通訳の方のお陰だ」と言われた。ごもっともである。

「国内市場は限界」と言われ、多くの企業がグローバル化を進めてきたが、語学力だけでは通用しない。「日本語しか話せない営業力のある人」と「営業力はないが英語が堪能の人」の二者択一を迫られたら、迷わず前者を選ぶ。「営業力」は「人間力」にも通じ、「魅力がある」とか「感性が豊か」ということは、とても重要。その人の生き様と中身が出るから。そこに語学力が備われば、完璧である。

心躍る「グローバルな方」との出会い。

最近、仕事でそんな素敵な方と知り合えた。
ファミリーマートさんと共同で開発した専用メイク、新「mfc」キャンペーンの応援をお願いしたモデル・リーザさんである。
ドイツで生まれ、日本ではドイツ人学校に通って育ったので、純日本的な礼節より欧米的なフレンドリーなオーラが出ている。それだけに、芸能界の先輩、後輩の付き合いなどを心配してしまうが、お会いすれば必ず彼女のファンになること間違いなしだ。
テンポのある会話や、お互いのブログの話題などに、賢さと、飾らない人柄の良さが滲み出ていた。彼女の「LIZAのブログ」を拝見したが、価値を見出す発見力と、彼女らしいグローバルな感性で捉えた写真と英語の表現力に驚いた。早速お気に入りに登録した。

決して「田辺は『きれいな女性』だから気に入ったな」ではない。是非、彼女の内面に注目してやって欲しい。これからのグローバル時代で活躍する一人だと思う。彼女の発するエネルギーが、太陽のように周りを照らし、楽しくさせてくれるよう祈念している。
LIZAオフィシャルブログ
mfc LIZAメッセージ動画

心に響く「わが人生の宝」と思う出会い。

リーザさんのように若い方の出会いも感激だが、自分にとって「目指したい太陽」のような「あこがれ」の方との出会いもあった。それは、今なお、寂しさが消えることのない「市川團十郎」さんとの出会いだ。
昨年秋の出会い以来、私が團十郎さんに魅せられた理由をあれこれ考えて分かったのだが、その一つに「團十郎さんの声」がある。
私も人前で話す機会が多々あり、多少の言葉使いと身振りで相手に伝える術は身に付けたつもりだが、團十郎さんはそんな小手先のレベルではない。相手の心の奥深くに届く「音」である。だから「共振」する。天龍寺で、「カネボウさん、有難うございます」という「音」を聞いたときに、私からの感謝が「共鳴」したのである。
日本の伝統文化の歌舞伎役者として、常に厳しい視線を自らに向け、命の意味を考え、生きることの孤高さを内に秘めながら生き抜いた團十郎さんは、まさに世界の人々を魅了する「人間力」をお持ちの方であった。
できることなら、いま一度「團十郎さんの声」を聞きたい・・・。
魅力的なあのお声が再び聞けないことを、心底かなしく思う。

先日、市川海老蔵さんのブログが開設されていた。團十郎さんの意志と市川家の血を受け継いでいる方である。感慨深く、お気に入りに登録した。
成田屋 市川團十郎・市川海老蔵 公式Webサイト
 (※新着情報でこのブログを紹介いただいております)

これまでに多くの方の「人間力」に感服してきた。そしてこれからも、素晴らしい方々とお会いしたい。その期待で一杯です。

「出会いは人生の宝」である。
次回も「心震える素敵な出会い」を紹介してみたいと思います。
                                 

2013年4月18日木曜日

楽しい未来に向けて、肝に銘ずること。(後編)

この世で変えられないのは「己の過去と、人の心」である。
そして、変えることができるのは 「己の心と、自分の未来」

前編で「心構え」を変えてから、後編では「優しさ」を持つ方法です。

「優しさ」を持つ、秘訣その1
「相手の感情」を知ること。

数年前の第一生命主催の「サラリーマン川柳」の作品に
「ごみの日に 出したいごみは まだ寝てる」というのがあった。傑作だと思った。
講演などで紹介すると、女性の方は、亭主が日曜日にパジャマ姿で寝転んでいる場面を想像するらしい。
休日に家でゴロゴロしている亭主は粗大ゴミなのかもしれない。この川柳を、多くは女性の作品と思うようだ。
しかし、真実は違う。これを作ったのは男性である。
平日の朝、会社に出勤する亭主に向かって、パジャマ姿の女房からの一言、
「あなた、途中のゴミ置き場に生ごみを捨てて行って頂戴」。
亭主は、ごみを出すために、かばんとごみ袋を左右に持って家から出るということらしい。
どうやら、ごみは奥様のようだ!
ちなみに「まだ寝てる 帰ってみれば もう寝てる」という川柳もあった。

当たり前だが、人が感じる「嬉しい」「悲しい」「楽しい」気持ちになるのは、自分の周りで起こる色々な出来事に呼応している。つまり「見る、聞く、嗅ぐ、味わい、触れる」という五感で判断して、一喜一憂する。
その判断基準は、今までの自分の生き様というか、経験によって作り上げてきた「既成概念」が目安になるので、当然だが他の人とは一致しない。
親子だろうと、夫婦だろうと立場、環境、経験が異なるので、味噌汁の味噌は「白味噌」か「赤味噌」かで、けんかになったりする。
ここで忘れていけないのは、相手側に立った見方が、おろそかになる、ということだ。

「人」は2歳から4歳までに、「人間」になろうとする。つまり「自我」に目覚める基本的な準備としての「概念」を作るそうだ。
「大きい」「小さい」「花」「動物」などの判断が、できるようになる。
その後、「人間」への成長過程で、無数の概念づくりをする。
「真偽」「美醜」「善悪」などである。ある面、ピュアな心が消えていくのかもしれない。
これは環境が重要だから、国が違うとか、周囲の環境によって著しく異なってくる。

学者のなかには、「『概念』とは脳の感覚機能の連合体による勝手な判断」と言い切る方もいる。だから、変えられる。我儘な自我を作り上げた概念をリセットしてみることだ。
相手の心理にせまり、立場を変えて見直すことで、自分が変わる。
しかし、相手の心を深読みしても、その想像が全く違っていることが多いから厄介だ。
では、具体的にどうすればよいかを考えてみたい。

「優しさ」を持つ、秘訣その2
「相手の感情」の次に「相手の望む心」に応える。
「幸せ与え行動」のススメ。

まず、人の見方は全く違うということを、理解すること。目に入る映像は、自分の眼球と網膜に映して見ている。この時点で相手の網膜にはなれない。
私が子どもの頃に見た故郷・静岡の大浜海岸の「青空」は、息子が広島で見た「青空」と同じわけがない。
同じ時刻に同じ場所で同じ「青空」を眺めると、かなり同じ概念に近づけるかもしれない。
しかし全く同じ「青の色」にはならない。相手との同質化自体が不可能、と思い知ることだ。せめて、相手の心に近づき、相手が嬉しいと思うことを「行動指針」とする以外ない。

どんな人でも、「人間関係の中で感じる幸せ」は4つある、と言われている。

「愛されている」
「ほめられたい」
「必要とされている」
「役に立っている」
この4つと言うが、どうだろう。

人は自己の存在意義を求めている。その答えとして、己の存在を認められることで得る心地よさや、満足感などで、「幸せ」と感じるのだろう。
わずらわしい人間関係渦巻く中で、良好な周囲の人々との接し方やマネージメントをするには、この4つの幸せ感を相手先に充足させることが、実に効果的であり大切になる。
冒頭部分で触れた、「立場変われば見方も変わる」でおわかりのように、我々は常に
「愛されたい」「ほめられたい」「必要とされ」「役に立っている」と思われ、評価されたい。だからといって、全ての人が、自分の満足を求めてそうされたいと思っていては収拾がつかない。
相手に求めず、「自分しか変わらない」の言葉通り「愛する」「ほめる」「必要だ」「役に立っている」と相手に発信するのである。求めるのでなく、与えるのである。
後輩や、部下や、仲間が増える度に、相手への幸せ与え行動は活発になる。
こちらからの与える発信が増えていくのである。
人間関係の中で感じる幸せが満たされてくると、「生きがい」へと繋がるようだ。
会社組織の活性化にはこの「蔓延」と「連鎖」が非常に重要になる。

「短所改善法」を減らして、「長所伸展法」でほめまくる。

我々はつい、「現状の課題とその対策」で業務活動を回してしまう。
出来ていないことを直そうとする短所改善法から長所進展法へと大きく変換する必要がある。私も含めて、経営者の方々とこんな話をすると、「うちでは、好事例の表彰など、ほめる・認める活動を披露する場面を作っている」とおっしゃる。しかし、出来ていないことへの指摘や対策のほうが圧倒的に多いはずである。
組織の運営スキームや人事的評価にまで落とし込まれた企業は、どのくらいあるのだろうかと、考えてしまう。

自分の側から見れば当然、愛されたいし、認められたい。しかしそれを求めるのでなく相手に与えることに喜びを見出す。すぐには無理かもしれないが、相手に幸せな気持ちになっていただくと、必ず自分に撥ね返ってくる。

「友の悲しみに我は泣き、友の喜びに我は舞う」

私も皆さんも、実はそのことを知っている。
なぜなら、「この人は魅力がある」と思える人って、自分が、自分が、とアピールする人ではなく、「人のキラキラオーラ」に反応する受信専用電波を発している人だ。「私を認めて」から「相手を認める」へ切り替えることで、相手は「友」となる。
友の魅力を見つけたら、素直に反応し、嬉しいと喜べる度量も備わるのだ。
自分のことより、相手を思い、いつも人を気遣う謙虚な心。なんて魅力的な人だろう。

それにひきかえ、私は、今日まだ誰も笑顔でほめていない。認めるために、ほめるために相手をよく観察してみよう。そして、幸せな気持ちになっていただこう。

やはり、楽しい未来の前提は、
この世で変えられないのは「己の過去と、人の心」であり、変えることができるのは 「己の心と、自分の未来」しかないのである。