2013年11月18日月曜日

息子の柔道から「道を究める」を学ぶ。

現在小学6年生の息子(勇斗・ハヤト)が柔道を始めて、1年が過ぎた。
広島で野球を始め、浦安に戻ってからも少年野球を続けていたが、太り過ぎでベンチを温めていたため他のスポーツもやってみたい、というので近くの柔道場へ見学に行ったのが始まりだ。

初めての町道場で、子どもたちが真面目に柔道の稽古に励む風景は、とても新鮮であった。そこで「武道」とは「自分自身を高めるために励むこと」が根本にあり、他人のためでも親のためでもない。だから練習でも「手を抜くのは勝手」「止めたい人は止めればいい」といった精神が基本にあると知った

今までの勉強やクラブ活動など全体主義では「止めたい」とか「努力を怠る」などは、いけない行いとして、叱られる対象であっただけに、やらなくてもいい発言に、最初は戸惑った。



その日も、技の打ち込みに励む子どもたちに向かって、小学生全体を指導する先生が、大声で「休みたい人は勝手に止めてもいいぞ、それは自分に返ってくるだけだぞ~」と気を抜いた子どもに声をかける。それでも変わらない子どもには「強くなりたくて一生懸命やっている他の子に迷惑だから、今日は道場から出て行ってくれ」と言っているのである。驚いた。

最近の子どもたちは、物心ついたころより宿題、試験に追われ、社会人になってもスキルアップや研修や試験にも追われ「挫折はできない」と競争社会を気負って生きることが多いので、道場の先生の言葉がとても異質なものに思えたのである。
勿論、こんな調子で柔道を教えるので、嫌になって稽古に来なくなる子はたくさんいる。

基本の受け身や、礼儀作法をみっちり教えるので、まずそこで挫折する。つまらないのである。それでも頑張って基本を習得して、やっと乱取りが出来る一般コースにきたら様相は一変する。

自分より年下で小さな体の先輩たちに、バッタバッタと投げられるのだ。息子も、1学年下の女の子に面白いように投げ飛ばされていた。最初はけっこう「心が折れる」らしく、稽古を続けられるか心配したが、周りの子どもたちの燃えるような闘魂に引っ張られるように、道場に通った。

不思議なもので、半年もしてくると投げられなくなってくる。野球のお蔭である程度、体幹ができていたのと多少の腕力はあったので、何とか互角に乱取りが出来るようになってきた。
当初から息子の指導に当たってくださっている先生は、「一つの技を極めさせたい」と息子に「大外刈り」を徹底的に仕込んだ。上背のある選手が得意とする技である。
自分より上背のある相手には、懐に入っての「背負い投げ」などの「かつぎ技」が多い。
息子の「大外刈り」を極めるための練習は、今も続いている。

息子はこの1年間、ひたすら「大外」をかけ続け、足の爪は4枚はがれた。両手は、組手争いで相手の手とぶつかり合うために、節くれ立ち、身長は9センチ伸び、体重は9キロ増えた。
野球も続けているので、運動量が激増し「ぽっちゃり型」だった体系は、身長163㎝、体重62㎏、アスリート体型へと見事に変貌した。



自分のためより、人のため、人の痛みに流す涙

先生は、初参加になる秋の千葉県学年別重量級の個人戦に的を絞っていたようで、夏以降「大内刈り」「内また」「支え釣り込み」など他のバリエーションも増やした。が、あくまで理想の「大外刈り」への連続技なのである。

先生は言う。
「まだまだ大外刈りは極めていません。最近は試合で組んだ相手も、彼の大外を警戒してます。半身を引いたり、組手を切ったりと、徹底的にかわしてきます。それをあえて大外で決めるのです。
組んでから半身を引かれる以上に回り込んだり、連続技から相手を崩して大外刈りへと、何通りかの大外刈りを身に着けることです。それを体で覚えなければ試合では生かされません。すべての技は、対戦相手によって一つ一つ違います。どんな相手にも見事に決まる大外刈りを完成させるには、一生かかるかもしれません」

一つの技を極めるとは、「気の遠くなるような繰り返し」から掴み取るしかない、と実感した。まさに自分との闘いである。そして指導する先生たちも、教えたことに対して真正面で応えようとする子どもには、我を忘れて子どもたちと取り組んでくれる。休み返上稽古の時など、自分の家族もあるだろうにと、頭が下がる。
そんな熱い先生方のお蔭で、息子は徐々に育ってきた。
畳の上では、先生にすべてをお任せするので、私と家内はただ見守るだけである。

最近では、勝ち負けの結果よりも、悔いのない試合をさせたいと思うようになった。
「勝って強くなるより、負けた分だけ強くなる」ほうが、強さに厚みが出る。
負けて泣く、悔しくて泣く、練習で泣く、こんな涙は自分に対して流す涙である。
考えてみたら、人は生まれた時より、オムツが濡れた、お腹がすいた、腹が立つといって泣く。大きくなっても同様で自分のための涙が多い。
自立し始めた子どもが、「人の痛みで泣ける」ようになれれば、と願うのだが、大人になっても、一生自分のために泣くだけの人もいる。



先月、息子は目指す個人戦の1週間前に行われた男女混合無差別の大会で、あえなく一回戦で判定負けした。柔道で初めて大泣きした。
涙の理由を知りたくて、「悔しいのか」と尋ねたら、喉をしゃくりあげ、頭を左右に振りながら「先生に、申し訳なくて 」と言って泣いた。
連携で交代して息子の面倒を見てくれた二人の先生へのお詫びの涙であった。
自分のための涙でなかったことに、私は、思わず息子を抱きしめてやりたくなった。

しゃくり泣く息子を、冷静に見守っていた先生が、ようやく落ち着いた息子に向かって言った。
「もう、すっきりしたか、いいかよく聞け。おまえは技の組み立てと掛け続ける姿勢が足りないんだよ」
「はい!」
「明日から、そこを直すために、練習するぞ、ガンガンいくからな」と、もう一人の先生が続けた。
先生は以前、「息子さんとの出会いは自分自身も変えてくれました」と私に言った。

翌日からの練習は、はたから見てもかなり厳しい練習になっていった。
道場での乱取り稽古の気迫は、組む相手にも伝染する。先生の指示で間断なく息子と組んでくれる中学生の先輩たちはその空気を感じ取り、今まで以上に真剣勝負で取り組んでくれた。
「あれだけ頑張る勇斗のために、俺たちも気合入れて相手になります」と私に伝えに来た。彼らも毎日毎日稽古を重ね、今や屈指の強さを誇る先生同様「柔道猛者」なのである。



こうして、息子は道場の先生と先輩、それを見守り続けた父兄の思いを背負って、翌週の千葉県大会に臨んだのである。結果は、負けた分だけ強くなれたようだ。

息子も私も「柔道猛者」の彼らから学ぶことが多すぎて、嬉しくて仕方ない。

人は「無我夢中」の姿に感動する

「私が私が」「俺が俺が」を捨て、我を忘れて打ち込む「忘我」になり、「無我」を極める。そして、道を極める「夢」に立ち向かうために夢の中に入り「夢中」の努力をする。
「無我夢中」。私の一番好きな言葉である。我々は無我夢中の姿に感動する。
柔道でも学問でも仕事でも何でも良い。とにかく「無我夢中」で取り組みたい。結果や妥協、打算など入り込めない、がむしゃらな姿こそ、何かを極めたいと思う人々に営々と引き継ぐ思想なのだと思う。
息子は、この先きっと「柔道猛者」を目指すだろう。「無我夢中」の姿を見て、いずれ後輩たちにも、「極めるための無我夢中」を引き継いでくれることを、私たちは信じている。


田辺 志保


立花克彦ブログ:尊敬する経営者とのお付き合い以外にも
「柔道家」としてもご指導いただいている方です。

2013年11月1日金曜日

「人を知るほどに好きになる」は本当だ。 

取引先様から、従業員さんやお客様向けに講演を頼まれることがある。好き勝手な話だが、次回の依頼も頂戴するので、喜んで頂いているようだ。



人は見た目で判断する

人は出会った瞬間、相手の値踏みを開始する。大抵の人は数十秒で、容姿、服装などで「あの人は感じがいい」と判断する。しかし「気に入らない」と決められたら、たまったものじゃない。

「人は見た目で判断してはいけない」と戒めるのは、人は見た目で判断するからだ。一度感じた印象は簡単には拭いきれない。概念・観念は、今までの経験と知見により、外観と物腰でその人を判断。職業や財布まで決め付けるから怖い。

因みに私自身、4年前まで90キロ超えていて、おまけにスキンヘッド。サラリーマンと思われず「怪しい奴」と思われて苦慮した覚えがある。

最初の冷静かつ批判的見方から、知り始めての変化を「熟知性の法則」、別名「自己開示の法則」として発表したのが、米国の心理学者ロバート・ザイアンスである。

「熟知性の法則」の3つの法則とは

1、人は、初めて会った人には、批判的で冷淡で攻撃的である。
2、人は、その人のことを知れば知るほど好感を持ち始める。
3、人は、その人の人間的側面を知った時、好感を持つ。

ザイアンスが『熟知性の法則』を発見した出来事を紹介したい。ニューヨークの地下鉄での事件を、皆さんも観客として読んでほしい。



ある日、地下鉄に男性と3人の子どもが乗り込んできた。お父さんらしき男と、12歳ほどの女の子、7.8歳と3歳ぐらいの男の子2人の4人連れ。地下鉄は通勤時間を過ぎ、座席は半分ほど空いていて車内は静かであった。ところが、この親子らしき4人が乗り込むや否や雰囲気は一変する。

下の男の子2人の行儀が悪く騒がしいのだ。走り回る子どもの傍らの父親らしい男は見ているだけ。お姉ちゃんらしい女の子もまるで他人事。

見かねた一人の女性が「子どもたちを静かに!」と男を咎めた。乗客全員が「そうだ!よく言った、何と非常識な親子」と思った。誰もが冷たく批判的なのは当然だろう。

咎められ事態を察した父親は、暫く沈黙し意を決したように口を開いた。「大変申し訳ありません。気が付きませんでした。…こんな話をすべきではないかもしれませんが、12歳の娘は普段は弟の面倒をよく見る子です」「入院している母親に代わって、頭が下がるほど家のことをしてくれます。どうか娘は責めないでください」父親は、静かに語り続けた。

「実は、先程入院中の妻が息を引き取りました。家族で彼女を天国に見送ることができました。6歳と3歳の息子は、久しぶりにママに会えたと喜んでいます。痛み止めのせいで眠るように息を引き取ったので『ママ、ぐっすり眠ったね』と喜んでいます。元気になると信じているようで」と父親は、はしゃぐ息子たちを見つめた。

「私は、息子の嬉しそうな姿を見たら『ママは眠ったのでなく、もうこの世にいないんだ』とは、どうしても言えません。今の彼らには理解できないかもしれません」

はしゃぐ子どもたちの声が車内に響く。

「私はこれからの事を考え塞いでいました。お恥ずかしい話ですが、息子の行動に気がつかず、すみません」父親の目から堰を切ったように大粒の涙。そして傍らの娘を抱きしめた。

「お姉ちゃんは、母親の死を理解してます。今まで気丈に振舞い、泣き言一つ言わず、家事を引き受けママの代わりをしてくれました。しかし、先程から下を向いたままです。普段は弟の面倒を良く見る娘です。彼女まで責めないでください」


親子を咎めた女性と居合わせた車両の乗客は、その時こう思ったのです。「この親子に、我々は何か出来ないだろうか」と。まさに、最初の批判的、攻撃的な感情が一転し、同情から愛情までを、この親子に抱くのである。

これが「人は、その人のことを知れば知るほど好きになり、その人の側面まで知ると好感を持ってしまう」という、ザイアンスの法則である。

未だに、通りすがりの殺傷事件が後を絶たない。自分の感情だけで攻撃する。もしその被害者が、一人息子の誕生日を祝う為、家路を急ぐお母さんと知っていたら犯行に及べるか。きっと「相手を知る」ことで、人は優しくなれるはずである。

「嫌な人」とは知らない人のこと

私達は、仕事でもプライベートでも必ず苦手と思う人がいる。どうも気が合わない。自分のことを判ってくれない。いちいち癇に障るひと人。

憎い・妬む・嫌いの前提は、相手の本質を知らない事が殆ど。表面的には知っていても、本質や真実は知らない。無論、それは相手も同じで相手と鏡のように呼応する。

そこには「優しい気持ち」は存在しない。これは「自己開示の法則」とも言うが、この本質は、自分を開示して好きになって貰うのでなく、相手を開示させて、その人を好きになるということ。すると、こちらの自己開示に耳を傾けてくれる。

マネジメント手法に「積極的傾聴」がある。深く聞き取ると、マニュアル応酬を超える。部下の成功報告を聞く時は、何処を褒めようか?と思いながら聞き、逆に失敗談なら、どこに課題があってどう対処するか、と考えながら聞く。

私は、疲れて帰宅しても、家内からその日の出来事を根掘り葉掘りと聞く。面倒くさいと思ってはいけない。そのうちTVのホームドラマより面白くなってくるから。

全ての人でなく、せめて周囲の方々は好きになりませんか?の話だ。そして、新たな出会いは意図的に相手を知り、好感を持った方が楽しい筈。

そうなればしめたもの。知人が友人となりファンへとなり、そして最後は「サポーター」へと素敵な仲間が増えていく。嫌な奴や、苦手な奴より、楽しく素敵な方の思い出だけ残したほうが、健康にも、精神的にもよっぽどいいじゃないか。

この夏を振り返りながら、以前「女性の魅力とは」をテーマで話した「ザイアンスの法則」を今一度思い返してみた。
                               
田辺 志保