今、私のプチブームに「懐かし昭和」がある。巷でも東京五輪、三億円事件、昭和グッズなどよく取り上げられている。マイブームの発端は「三丁目の夕日」の映画だ。この映画、第3部まで製作されたほど人気があったようで、懐かしく楽しませて頂いた。
原作の漫画「三丁目の夕日」(作・西岸良平)は私も読者の一人だっただけに尚更である。その後、テレビ放映された映画を観ていた我が家の子どもたちにも評判が良かったのだ。確かに、内容的には昭和時代を全く知らない平成世代の人々にも受ける内容でもあるが、時代背景にもなる「向こう三軒両隣」という濃密な地域の繋がりや、「三種の神器」など理解不可能と思っていたので、少々驚いてしまった。
生活環境は異なっても、熱気あふれる恋愛物語や人情劇は世代を超えて共感するのだ。
団塊世代が「昭和」にひたる
そんな最中、ちょうど一昨年になるが、お取引先様に誘われて浅草ROXにあるコシダカシアターという劇場に出かけた。ここでは「シャボン玉だよ!牛乳石鹸!!」が上演されている。ファミリーマートプレゼンツで、株式会社アミューズ「虎姫一座」のメンバーが歌と踊りを楽しませてくれている。
昭和28年テレビが登場、街頭テレビから一挙に家庭に普及していった昭和45年の万国博覧会あたりの時代背景を、映像とともに振り返りながら、当時大人気のテレビ番組「ザ・ピーナッツのシャボン玉ホリデー」を再現していく、という内容のショーで、かなり完成度も高く優れたものである。
このショー、お客様がお客様を呼び、今でも、連日満員の盛況ぶりである。私が行った日も「団塊世代」を中心とした人々(今なお元気な元若者たち)で一杯であった。
19時開演の1時間前から1杯飲んでほろ酔い気分のお客様も多く、すでにテンションマックスの気配である。
「シャボン玉~」と曲が流れ出すと、皆さん一緒に口ずさみ始める。
昨日のことは忘れるくせに、あの頃の歌は覚えていて、歌詞がスラスラと出てくるから不思議だ。
懐かしのテレビCMソングコーナーというのもあって、静岡・伊東のホテルやカステラの老舗のCMソングは、全国ネットで流れたのだろう、知っている方が多いのにも驚いた。日曜洋画劇場コーナーなど面白企画が満載で、とにかくお客様を飽きさせない。
後半のザ・ピーナッツソングコーナーになると「恋のフーガ」や「銀色の道」など観客総立ちになっての大合唱であった。
出演している「虎姫一座」の面々がまた素晴らしい。若い世代のメンバーながら昭和歌謡を覚え、積み重なる練習を積んで、ショーのクオリティ―の高さに感動し、ひたむきに無我夢中で歌い踊る姿に、私はいっぺんで虜になってしまった。勢いあまり、その場で「虎姫一座ファンクラブ」に加入した。以来2年ほど通い詰めている。
その昭和歌謡レヴュー・ショーがこの夏、何と「1000回記念公演」を迎えた。もちろん観賞させて頂いたが、懐かしのグループサウンズを取り入れ、自分たちの生演奏で構成された企画であった。
当時、ビートルズやフォークに魅了されバンドの真似事をしていた私は、いきなりモンキーズの「デイドリーム」が始まると懐かしくて泣きそうになった。
一口に1000回というが、大変なことである。多くのファンが昭和を懐かしみ、虎姫一座の活躍に感激し、それを同世代の人たちに広めてくれた結果であろう。
「虎姫一座」のメンバーは、1000回公演に向けて昭和の文化や風俗を学び、当時の流行歌を何度も聞いて練習したらしい。そこで感じたことは、当時の歌が持つ「新鮮さ」や「魅力」だったと語っていた。
この劇場では、昼間の演目が「エノケン、笠置のヒットソングレヴュー」。こちらも「虎姫一座」が頑張っていて、シニアの皆さんで大盛況のようだ。
コシダカシアター劇場から出てくる満面笑顔のおじさん、おばさんを見ていると、浅草は「昭和文化」復興の聖地のような気がする。いささか大袈裟だろうか。
心に刻まれたことを大切にしたい
ここで、「昭和」を自慢するつもりはないが、確かにあのころはエネルギッシュで皆が同じベクトルだった気がする。2020年の東京オリンピック招致活動と決定に沸き返る反応は、まさにあのころを彷彿とさせる。
ネットや携帯電話もなくて、手紙と電話のやり取りこそが、憧れの彼女との繋がりの時代。
父親と先生が何よりも怖かった時代。町内の事は何でも知っている「名物おばさん」に怒られたことは1度や2度ではない。ケーキやジュースは特別な日の食べ物だった。
思い返すと今の自分にとって、全ての経験に価値があって貴重な出来事になっている。
私だけかもしれないが、単純な思考回路と価値観が幅を利かせていて、物事がシンプルで、大人たちも今ほど疲れていなかった気がする。
今は、一人一人の多様性を考慮するのが前提で、それぞれが複雑で価値観も異なるので、それに合わせ、慎重で気を遣うことが多い。あらゆる局面を想定して対処しなければならないから大変だ
身近なところでは、子どもの運動会の短距離走では決して順位をつけないし、運動会見学に来た家のひと(父兄ではなく保護者と呼ぶ)が持参したお昼のお弁当を食べることも禁止する学校も多い。
走る力の順位つけは「差別」につながる危険があるし、昼食も持参できない場合や保護者が来られない子どもに配慮するのも当たり前なのだ。
そうなると他にも多くの配慮が出てくる。たとえば息子の小学校では「学級委員長」が存在しない。誰もが均等に役割別の委員に属していて平等なのだ。一人一つの委員なので、兼務はない。各委員は団体活動の進行のためにあり、そこに任せるので、全体が見えにくく責任が分散される。
クラスを一つの方向に統率するのが大変だろうな、と心配してしまう。
少し寂しい感じだが、公平で差別を根絶することが最優先、となれば仕方ない気もする。
「虎姫一座」の熱心なリピーターの私は、その後もお取引先様や若い人たちとともに「虎姫一座」の元気な姿を見に行くが、皆さん喜んで頂いている。若い人からは「パワフルですね」とか「なんとなく懐かしい匂いがする」などの反応がある。
一つの歌が持つ「力」や「重さ」を感じるようだ。ラジオとテレビしか娯楽がない時代は、一つの流行歌が、ロングランで影響力を持っていた。我々の心に深く刻まれている。当時の曲を耳にして口ずさむことができるのはその証拠だ。
純粋にいろんなことに「夢中」になれた時代だったかもしれない。
「明日に好奇心」 忘れないように……
これからを生き抜く子どもたちに、昭和の文化や、己を手本にせよ、などとは決して言わない。私のような団塊世代の末席組は、我々の親たちの世代が築いた激動の時代に、便乗しただけかもしれないからだ。
しかし、私はこの時代に培われた価値観を知ってほしい、と思う。
「戦後は遠くなりにけり」とはいえ、物質的には決して豊かとはいえず、まだまだ貧しい人も多くて、服はお兄ちゃんのお古でズボンにはつぎがあたっていた。近所のテレビや電話のある家にはよくお世話になったものだ。だが、誰もが差別とも思わず共存していた。
根っこにあるのは、頑張れば「そのうちきっと良くなっていく」と信じていたからだ。
今の若い人が、ゲーム感覚の人生を送る。メール以外にあまり会話をしない友達と、「この世の中混沌として不満だらけ」とラインの仲間と語る。
ニート生活に疲れ、夢もなく、満足の状態が分からずに「ゲーム・オーバー」といってネット仲間と死んでいくのでは、あまりに寂しい。
私は、父親として、いつまでも元気で希望に溢れた生き方を子どもたちに見せ続けたい。子どもたちに「この時代のお父さんってかっこよかったんだね」と、言わせるホットな存在でありたい。
そのためにも、大いに昔話を語り、エネルギーを発散することである。
私も「明日に好奇心」を忘れないためにも、ギターに再挑戦するつもりである。
定年後は「おやじバンド」復活だ。そして、「はとバス昭和浪漫紀行」や「浅草ROX・虎姫一座」など、懐かしい「昭和」イベントに子どもと一緒に出かけたい。
オヤジのフィーバーぶりで、今度はうちの子どもたちが「今どきの若い奴はなっとらん」といって奮闘する大人に成長してくれたら、最高である。