稚拙なブログだが「出会いは人生の宝」は変わらない。問題なのは、自分には宝の出会いでも、先方様も宝と思って頂いているかどうかだ。
お互い良き出会いなら最高だが、はっきりしているのは自分が「損した出会い」と思えば、相手もそう思っていると考えた方がよさそうだ。
懐かしい再会は嬉しいが、ビジネスや利害関係が絡む再会とは話が別だ。相手先様に、今までの自分が試されることになるから怖い。
当時は深い付き合いでも、会社や肩書きが変わったり魅力も無ければ、相手は洟もひっかけない。初対面も同じで先方様に適当にあしらわれたら、残念だが「不合格」と判断されたのだ。
実は、新ブランド「シンプュルテ」が、ECも百貨店様も好調な滑り出しで、当初から考えていた化粧品専門店様での展開をお願いしたくて、経営者の方々にアプローチしていた。
私がカネボウ時代にお世話になった全国有数の企業様だが、こちらは中小メーカーの未知ブランド、まして自分を覚えているかも分からない。
専門店流通から離れて15年。そのあとは違う道を歩んできた。既にカネボウ専門店の責任者は4代替わり、加えて定年退社から7年も経っている。
不安ながら先方にお手紙を発送後、電話をすると、何と嬉しいことに多くの方が覚えていてくれ、近況報告や発表会へと話が弾んだのだ。
思わず「今までの自分」が合格と喜んだが、合格はここまで。取引様となれば今までの自分から「これからの自分」が試されるフェーズになる。決して不合格は許されない。
世の中で一番哀れなのは「忘れられた人」
一体自分は、どれくらいの人を宝として積み上げられ、逆にどれだけの人に自分をそんな存在として記憶に残せたのだろうか。
仏の芸術家マリー・ローランサンの詩「鎮静剤」に、この世で哀れな女とは、退屈な女より悲しい女、悲しいより捨てられた女、捨てられるより追われる女、追われるより病気の女、病気より死んだ女と続き、死ぬより哀れは「忘れられた女」だと言う。確かに忘れられるのは一番切ない。
これは20世紀前半の作品で女性蔑視も甚しいが、本質は男女関係ない。存在があるから嫌われるのであり、忘れられたら好きも嫌いもない。
薄っぺらな付き合いに終始すると、忘れ去られるばかりだ。やがて昔の仲間に忘れられ、家族や友にまで見放されたら、生きる気力を失う。
せめて生きてる間は、相手に良い記憶を残したい。亡くなれば、評価も後悔も喜びも存在しない。突き詰めると「今、この瞬間を精一杯生きる」しかないと痛感する。
敬愛する坂村真民の「今を生きる」を読み返す。
『咲くも無心 散るも無心 花は嘆かず 今を生きる!』
猪突猛進の人生だったが、老いてくると「自分を見つめる」ことが多くなる日々である。