若い頃の時間がゆっくりと流れている感覚から、50歳代後半になると加速度的に時が流れます。特に最近は、役割として会社の運営上、各部門の業務プロセスを見つめて絶えず次の活動を相談しあう場面が多いためか、バタバタと一日が終わり、またたく間に一年が過ぎてゆきます。
思い起こせばカネボウ時代、寝る間も惜しんで全員が火の玉のように突き進んでいました。
「カネボウ、ドロボウ、ショウボウ」といわれ、夜遅くまで働き続ける「3つのボウ」と自虐的に自分達を表現していました。
しかし今、「いかに限られた時間内に成果を出すか」が問われる時代です。
時間管理は劇的に変わり、「長い」時間をかけるのではなく「深い」時間をかけることになって、活動テーマに合わせた時間の選択と集中と、空いた時間の過ごし方が重要になると思います。
一日が24時間。誰にでも公平に与えられた持ち時間です。
いつ、何処にいても、暗い夜のあとには夜明けの明るい陽が昇ってきます。
「人が生まれ出づるまでに過ごす時間は母親の胎内での10月10日間であり、これが『生きる』ことに費やす時間。そして、この世に生を受けた瞬間から次に過ごすのが『死』に向けての時間を過ごす事になるのである。だから悔いの無いように過ごそう」という話を耳にしたことがあります。
最初聞いたときは「結構ストレートすぎる表現だ」と思い、ピンときませんでした。しかし、社会人としての定年を目前にすると「今を大切に、何事も全力で取り組め」ということなのだと痛感しています。
山本周五郎の時代小説に、「主君のために死ねるか?」と問われた武士二人の行動を書いた本があります。一人は「見事切腹して見せますので、家での後始末の時間を下さい」
と決意を見せ、もう一人は、その場で腹を切ろうとします。
常に、その場で己の命が消えても悔いない行いと、後に残された者が困らない立ち振る舞いをする決意をし、日々実践することが「真の武士」たる価値、と書かれています。
確かに私たちも、いつ何時、不慮の事故で命を落とすかもしれません。突然の病に倒れる事もあるかもしれません。その時にそれまでの所業を嘆いても後の祭りです。
かくいう私自身、今この瞬間に死んでしまったら、恥ずかしくて棺桶にも入れません。
多くの大切な方との別れの場面で「もっと何かできたのでは」「力になれなかった」と悔やむ事があります。周りの側より一番悔しいのは亡くなった本人だと思います。
「限りある命を、精一杯生きる」
この世に生かされている私たちの不変のテーマかもしれません。しかし、人間以外の生物は一生懸命生きて、後世に子孫をつなげ、命の連鎖を切らさぬために、躊躇することなく精一杯生きています。
精一杯生きる事を悩み考えること自体が、「煩悩だらけの人間」としての恥ずかしさ一杯の所業なのかもしれません。
「この時をどう過ごすか」などと難しく考えると疲れてしまう! 私はシンプルに考えます。「出会い」を人生のプレゼントと思うことにしています。人に会うときはその人を「大好き」になる事を目標にします。そうすると、お会いした方の良い所がみえてきます。
そうして好きになると、その人のことが必ず気にかかります。当然ながらいつまでも良い関係を築きたいので、絶えず本音で正直に接するように努めます。
そのほうが楽ですし、先方も楽なようです。中には正直さが災いして、嫌われ、その場限りというケースもあります。それはもともと続くわけが無い関係、仕方ないと諦めます。
我が家の中でも、その日に起こった出来事、娘の受験、息子の試合など、まるで連続ドラマのように気になって仕方ありません。テレビのホームドラマよりリアルです。
いつも根掘り葉掘り聞き出します。ですから自分の心配をしている暇がないのです。
会社では都度、気になる人がたくさんいて、企業連続ドラマです。
家庭でも職場でも、こうして根掘り葉掘り聞いていると、やがて相手が一生懸命になって話すようになります。そして、面白いことに今度はその人が私のことを根掘り葉掘り尋ねてくるようになります。相談したり修正したりと関係が深化します。
こうなると連続ドラマの脚本がうまく書き直されていくように、家庭も職場もハッピーストーリー展開の運びです。
毎日、そんな風に過ごして積み重ね、ふと、気がついたら「けっこう精一杯生きていたなあ」と、思えたなら、最高だと思います。
今日も一日終えようとしています。
熱い風呂に入り、温まって寝ることにします。
何事もなく、明るい朝を迎えて、また、根掘り葉掘り聞いたり、話したりするために。
田辺志保 2013.新春