2015年2月2日月曜日

小うるささに磨きがかかりそう! 

私が今年、還暦を迎えることについてはすでに書いたが、それは4月。寒さ厳しい2月を越したらすぐである。ふり返れば、楽しいことも苦しいこともあっという間に過ぎたように思う。そんな中、目の前が真っ暗になるほど辛い時があった。2004年2月、信じていた会社が転覆した。

カネボウはそれまでの再建策である化粧品事業を花王に統合することを取りやめ、産業再生機構に、カネボウ化粧品を分社化して再建を委ねることになったのである。
産業再生機構の支援は、いわば国民の税金を投入するわけで、自立再生できぬと判断した会社への失意と無念さと、世間への申し訳なさが渦巻く思いであった。

私は現場の営業最前線でがむしゃらに仕事をしてきた、評価もされた。まして根っからカネボウが好きで、お取引先様も大好きで、どっぷり浸かり、会社の仲間と寝食を共にしてきた。それだけに、会社が産業再生機構入りしてしまい、私を引き立ててくれた経営陣も総退陣……。まさに「青天のへきれき」であり、ショックは計り知れないものであった。


家内に救われる

世の中には、挫折して、行き詰って、叱責、敗北……などによって気力を喪失したり、落ち込んだりする場面は多々ある。それが「己の至らなさ」から生じるのであれば納得もできる。しかし、この時は行き場のない悔しさで悶えていた。

産業再生機構入りすると、機構側の人たちが大挙押しかけてきた。MBA取得のエリートや、外資系の再生請負人たちが経営陣となり、既存メンバーのカネボウ側とで、カネボウ再生を模索し始めた。冒頭、彼らから「今までのカネボウの常識は、世間では非常識と認識してください」と言われた。それからは押して知るべし、こちらの課題をいくら説明しても理解してもらえない。特に流通責任者であった私とも意見の平行線が続き、現場の声より、机上のマニュアルを主張する機構側幹部との議論に疲れ切っていた。

そんな最中、夜中トイレに行くと「血の小便」が出た。もう会社にいることは限界かなと思った時でもあった。長期ローンを組んで自宅を購入したばかりだったが、それでも、折角手に入れたマイホームを手放して、もう実家に帰ろう、家族を連れて逃げ出そう、と思い詰めていた。

家内に「この家、手放して静岡に帰ろうか……」と打ち明けた。
すると家内は何もなかったかのように平然と、こう言った。「あなた、この家、売るより貸す方が、よっぽど得よ~」
私は家内の思いがけない言葉に
「えー、そう返してくるのか」「家を手放すことが平気なのか?」と、瞬間、驚いた。
私は「そうか、この家、貸す方が得なのか」と笑い返した。

あの時、テンパって張り詰めていた私の心が氷解するようにジワーと溶けて、温かくなってきた。そしてつかえていた塊が消えたように、落ち着いてきたことを今でも忘れない。
家内もそのやりとりを覚えていて
「あの時はまともに返答しないほうが良い」「たかだか家一軒でしょ」と思ったそうだ。やはり「女は強し!」である。
私にとっては、「俺にはこいつがいる!」と気づいた時であり、住む家を失うことなど大したことじゃない、命までは取られない、そして自分には一番大切な家族がついている、心配してくれる友人もいる、と奮い立った瞬間でもあった。家内には内緒だが、その時以来、「家内の為ならいつでも死ねる」と思っている。

昨年暮れに紹介した、大峯千日回峰行大行満大阿闍梨・塩沼亮潤住職の『人生生涯 小僧のこころ』に、荒行で死の淵に立った自分を救ってくれたのが、家族の絆と、今までお世話になった方々の励ましの言葉だったとある。おこがましいが、私もそう思う。本当にあの時は家内に救われたのである。
こんなふうに書くと、「どんな奥さんだろう」と思われる方がいるだろう。

家内と私は年齢差を超えた同志

私が家内と一緒になったのは18年前。私が42歳、家内27歳、いわゆる「年の差婚」で、多くの方に年齢差を心配された。それゆえ、エピソードには事欠かない。
結婚式の衣装合わせでは、衣装屋さんが私を家内の父親と間違えて父親用の黒のモーニングを出された。同行していた家内の母親が苦笑した。笑えない話では、結婚披露宴で、一人娘を手放す、しかもよりによって自分とそう年の違わない婿だっただけに、家内の父親は酔っぱらって(?)「あいつの首を絞めて、殺したい!」と、仲人を務めてくれた私の上司に言っていたらしい。ショックだった。

思えば、家内は、横着で勝手な私とよく一緒になったものだと感心してしまう。
当時の私は、営業での連続達成を目指す「田辺組」の現場監督として、部下の営業セールスとドロドロになって仕事に驀進していた。今では、要職にいる元部下たちから「あの頃を思えば、今の苦労なんて……」と言われるが、私は「そんなに厳しかったか?」と思い、少し不満である。

そんな時代に家内はセールスチームのビューティカウンセラー(美容部員)だった。駅前百貨店の化粧品売り場のカネボウコーナーのチーフとして、各メーカーの中で常に売上トップを維持してきた強者である。徹底した顧客管理を貫き、営業セールスの指示も聞き入れないほど生意気で「セールス泣かせ」だったが、きめ細かな優秀な美容部員で、立場は違うものの、いわば同じ釜の飯を食った同志である。

私は彼女を見ていて、仕事以外に全く無頓着な自分には、「伴侶として全て任せても大丈夫だし、楽だろうな」と思ったのが交際の始まりで、細かい経過は省くが、結婚にたどり着いた。ただ、結婚はしたものの、年間の殆どが出張で、結婚式の翌日も海外出張していた。未だ新婚旅行も行けずじまいだが、ひたすら家庭を守ってくれた家内のお蔭で、私は安心して仕事に明け暮れ、仕事も家庭も順調そのもので、東京転勤を皮切りに、静岡支社長、本社の流通部門長と私は階段を上がっていった。

前で触れたが、カネボウ倒産というまさかの事態に遭遇したが、お陰様で、4月、娘は高校3年生になり、息子は中学2年生になる。



元気だけが取り柄の子どもにも、それぞれの付き合いが増えて、家族で行動する機会は減ってきた。少し寂しい気もするが、これからは家内と向き合う時間が増えることになる。
それはそれで、素直に嬉しい!?
家内の両親も孫の成長を見守る優しいお爺ちゃんとお婆ちゃんとなり、私の事も諦め、気に入ってくれているのでは……、と思う。

人の気持ちを応援する「言霊の発信者」でありたい

思うに、目の前が真っ暗になるほど苦しい時こそ、まず己の息使いを感じるほどに気持ちを落ち着かせて、周りを見渡してみることだ。必ず自分を信じ、応援してくれる人がいる。大切なのはそういう人を見つける心のゆとりを忘れてはならない。「大切で有難い人」に気付いた時に、沸き立つ感謝の念は、生涯忘れることが出来ないものになり、その人のためにも頑張ろうと奮起できるものだ。

私は、家内の一言に救われた。今の処、私の「最高の出会い、人生の宝」、最良のサポーターは家内である。勿論、他にも多くの方々との出会いとご縁で、ここまでくることができた。多くの方に感謝! である。

ただ、言葉は人の心を壊すこともある。自分の一言が誰かに影響を及ぼすならば、相手への感謝を忘れずに、絶えずその人が元気になり、気持ちを応援できる言葉の発信者、でありたいものだ。
大切な人への御恩に報いるために、これからは、その方の最良のサポーターとして、微力ながら言霊(ことだま)を発信する覚悟である。小うるさいオヤジが板につくのも時間の問題のように思う。

田辺 志保