2013年3月15日金曜日

貴方は大切な人に、伝え続けていますか?(後編)

一昨年(2011年)東京に転勤で戻った。この11月、4年生になる息子の高洲小学校で、彼が広島で受けた平和教育を私が受け持ったのだ。

民間からトラバーユしたばかりの担任の君塚先生は、平和教育に悩んでいた。たまたま息子から聞いた広島の「平和教育」に興味を示し、私からの詳細を聞くや、何と私に授業を依頼してきたのである。


「2時限も受け持って良いのか」と思ったが、校長先生も参加してのオープン授業(父兄の自由参加)になり、レジュメを作って、授業に望んだ。

冒頭、まずみんなに「アオギリのうた」をきいてもらった。次に歌詞カードを配り皆で歌う。説明もしていないので、新しい歌の練習かと思っている。


その後、この歌の背景と「アオギリの木」の歴史と息子の体験、我が家族の体験を語る。


・「アオギリのうた」の意味
・戦争とは何か
・今回の目的は何か
・何をしたら良いのかと、話をしていった。


事実だけを語ろうと決めていたので、善悪の主観は語らず、本人たちに考えてもらうことを心がけた。


・広島原爆一発で14万人の人々が死んだ事。
・今世界中にある核兵器を全部あわせると、広島に落とした規模の原爆「リトルボーイ」147万発分の核兵器が存在している事。

・文明と共に昔から続いている戦争。今も地球のどこかで戦争が行われている事。

・平和とは「戦争のない状態」を指し、「直接的暴力」である戦争の解消が「平和」の実現といえる。これからは「構造的暴力」の解消を願う事が大切で、これを「積極的平和論」と呼ばれている事。

・「構造的暴力」とは、人間社会に存在する貧困・不正・差別・抑圧などの状態を指し、この存在を解消しない限り「真の平和」とはいえない。
これが「積極的平和論」だという事。

小学生に語るには、難しい課題であろう。今戦争を知る人は少ない。その体験者自体が年々減少するので、教師も知らなければ親も知らない。戦後67年経つので当然だが、我々は風化させてはならない。

最後に、彼らに強く伝えたかった事は、「アオギリのうた」と広島の「平和教育」の意味や、想いを理解する事は勿論だが、問題はその後である。

平和への願いを、子どもたちに伝えていく。その子どもたちが、それを受けて、「私達は何をする?何が出来る?」という能動的行動を考えることが、最も重要で大切だと思う。

授業を締め括る前に、もう一度「アオギリのうた」を全員で歌ってもらった。オープン授業だったので、父兄の方も何人かいらした。皆での大合唱となった。
最初に、この歌をきき、皆で歌った時と、全く別の歌になった。
作り手の想い、広島の真実、平和への願いなどが、歌詞の行間や、一音一音から感じてくるのだろう。最初の歌とは比べようもない。皆にもそれがわかったようだ。

2時限の授業は、あっという間に終わった。何処まで伝わったかは判らない。点数のつけようのない授業だ。

1週間後、担任の先生が、生徒達の「平和教育を受けて」の感想文を届けてくれた。
各自の感想や理解度などの違いはあれども、伝えたかった大事な事は分ってくれていた。
そして何より子どもたちの感想文が、素晴らしいのである。
純粋に彼らは「人を傷つける事は良くない」と教えられてきた。故に、武器の存在意味と、争い事の原因、正当化の大儀の矛盾などに、真っ直ぐおかしい事だと主張する。
そこには、大人たちの心に存在する「変な妥協」や諦めは無い。

「私の出来る事は、この歌や授業での知識や感想を、周囲にいる一人でも多くの人に伝える事だと思います」という女の子からの感想文を読んだ時、本当に授業を受け持ってよかったと実感した。同時に、その子たちに教えられた。

『貴方は、自分の周りの大切な人に、伝え続けていますか?』ということを。
                                   
田辺 志保


⇒広島市の協力をいただいて、広島市HPに掲載された
  森光七彩さんが歌う「アオギリのうた」を是非きいてください。

2013年3月1日金曜日

貴方は大切な人に伝え続けていますか?(前編)




平成21年(2009)広島に来て初めての夏、小学2年の息子が受けた「平和教育」に衝撃を受けた。6月に入り、ふろ場で息子が大声で歌い始めた。

電車にゆられ 平和公園
やっと会えたね アオギリさん
小学校の校庭の木のお母さん…

聞いたことのないメロディーと歌詞。
「何だ、その歌?学校で習っているのか」
「そうだよ。今クラスで習っているんだ。練習して全員で歌えるようになったら、アオギリのお母さんに会いに行くんだよ…」
息子は当たり前らしいが、私にはよく判らない。

「アオギリさん」「おかあさん」「会いに行く」ゆっくりと一つ一つ聞いていく。断片的な話と、家内からの情報とつなぎ合わせ見えてきた。

「アオギリのうた」とは2001年「広島の歌」グランプリを受賞した歌だ。この作詞作曲者が当時小学3年(9歳)の森光七彩(もりみつ ななせ)さんという女の子である。この歌を森光さんが作った背景には、彼女が受けた「平和教育」がある。自分達の校庭に植えられている「アオギリ(青桐)の木」の存在から物語りは始まる。

これは今を遡る67年前の朝にまで及ぶ。昭和20年(1945年)8月6日、8時15分、広島市に米国のB29から原子爆弾が投下された。通称「リトル・ボーイ」は、一瞬で広島市民14万人の命を奪った。

爆心地から1,300mの広島逓信局の中庭に「青桐の木」が植えられていた。当時、爆心から半径2キロは一面焼け野原と化し、高濃度の放射能で「今後75年間は、草木一本も生えない」と言われていたが翌年の春、類焼を逃れた「青桐」から新芽が出たのである。夢も希望も失った人々は、青桐の芽吹きに生きる希望を見出したのである。


アオギリはその後も市民の希望として大切に育まれ、1973年に広島平和記念公園に移植。現在も、広島平和公園内の資料館の隣に「被爆アオギリと、その子どもアオギリ2世」が並んで立派に根を張っている。この「被爆アオギリ」のおかあさんから、根分けをした子どもたちが、広島の小学校の校庭に植樹されているのである。

入学時、校庭の「アオギリの木」に気づく1年生は殆どいない。しかし夏を過ぎると小学2年生のお兄さん・お姉さんが制作した紙芝居を見ることで、何となく「アオギリの木」を理解する。

そして2年生になり「アオギリのうた」の練習が始ると校庭のアオギリが現実になり、アオギリのおかあさんが、平和公園で待っていると分かる。

アオギリ2世が校庭にある小学校では、低学年の課外授業で歌を覚え、実際に広電(広島電鉄の路面電車)に乗って「アオギリのおかあさん」に会いに行くのである。そして、その思いを紙芝居にして1年生へと伝えていく。その後、高学年での平和記念資料館見学へと続くのである。

息子は2年生に転校して来たので「アオギリのうた」で初めて被爆アオギリを知り、校内のアオギリのお母さんに会い、被爆アオギリの前で「アオギリのうた」を全員で歌ったのである。

私自身、被爆で幹の中央が裂けたまま、今なお元気に葉を生い茂らすアオギリを目の前にした時、その生命力と力強さに鳥肌が立った。

アオギリのCDで歌を覚え、息子の案内で平和公園に3回行く事になる。我が家の平和教育である。平和公園の資料館横の「被爆アオギリさん」前のボタンを押すと歌が流れてくる。澄んだ声で力強く歌う広島少年少女合唱団の「アオギリのうた」は、聞く人に多くの感動を与えてくれる。


「アオギリのうた」 作詞/作曲 森光 七彩

電車にゆられ 平和公園
やっと会えたね アオギリさん
小学校の校庭の木のお母さん
たくさん たくさん たね生んで
家ぞくがふえたんだね よかったね
遠いむかしのきずあとを
直してくれるアオギリの風
遠いあの日のかなしいできごと

資料館で見た 平和の絵
いろんな国の 人々や
私がみんなが考えてゆく広島を
勇気をあつめちかいます
あらそいのない国 平和の灯(ひ)
遠いむかしのできごとを
わすれずに思うアオギリのうた
これから生まれてゆく広島を大切に

広島のねがいはただひとつ
せかい中のみんなの明るい笑顔


私は平和公園の「アオギリのおかあさん」の歌をきいて涙した。生きる勇気と平和への願いを、森光さんが誰よりも理解しているのだ。

家族で見に行った井口台小学校の校庭の「アオギリの木」の前で、息子が覚えたての「アオギリのうた」を我々に伝えようと歌う姿にも感動した。

ここに住む子どもに「平和の尊さを伝える」を使命とする大人たちと、それに応える子どもたち。こんな体験の出来る広島に感謝で一杯だ。

被爆アオギリから芽吹いたアオギリの苗が、昨年は東北震災の放射能被害で苦しむ福島原発区域の人々に送られた。他にも災害にみまわれた各地に「アオギリの木」の苗は送られているときく。

夏休みの8月6日、広島の小学校は登校日である。そして朝8時15分、全ての市民がその場に立ち止まり、黙祷を捧げて仲間の死を悼む。

広島の平和教育の歴史は長い。当初は平和記念資料館で、直視出来ない悲惨な姿や写真を目に焼き付ける事で、戦争の悲惨さを伝えた時期もある。

しかし児童の恐怖心が先行してしまい、最適でないと「アオギリのうた」が「平和教育」の題材になったと聞いている。これは全ての小学校ではなく、地区や自治体で各様に展開しているという。

広島でのこれらの活動の根底には、「平和」への切実な願いである事はいうまでもない。

田辺 志保


https://www.city.hiroshima.lg.jp/soshiki/46/11397.html