2019年11月16日土曜日

涙の訳をつかめ!

会社で若い人と会話をすると、皆さん大人で分別もあり感心する。働くママとは「子育て談義」に花が咲き我が家の体験談には興味津々のようだ。

「子」の漢字は、呆れたの「呆」の象形文字が「頭の大きい人」を指し、これが転化して「子」となった。大人でも「呆れた人」はいるが、子どもの幼少期は一般的に「自我」に目覚めて発育するので、自分中心に世界が回っている時期。

子どもの成長のターニングポイントは、自分のために流す涙から「人の痛みに流す涙」に転化できるかを私は見守ってきた。痛くて泣く、悲しくて泣く、他人の話で泣く。これは自分ごとに投影しての涙。残念だが一生この涙だけの大人もいる。人の痛みに流せる涙が、いつ来るか来ないかである。

上の娘が小5の夏。遠く離れた私の母を見舞い、痛みを見せまいとする母の「作り笑い」に、娘は病院帰り「おばあちゃん、辛いのに」と大泣きした。不謹慎だが娘の感応性に納得した。

息子が道場入門半年の小6で、いきなり千葉県3位となり本人も道場も大喜び。そんな最中、船橋主催の小さな大会で、釣り手を封じられて負けた。なんと初戦敗退した。本人も先生もショック。

会場の隅で悔し涙に暮れる息子。先生は息子に「いつまでも泣くな。明日から組み手の練習だ」。私も「顔を上げろ、これからだ」と言っても、息子は更に肩を震わせている。

めそめそするな、男だろ!と先生も私も思った。しかし、あまりの号泣に不自然さを感じ、涙の訳を尋ねた。「どうして、そんなに泣くのだ?」

「お父さん、自分の負けは仕方ないと思う。それより先生がこんなに親身に教えてくれるのに応えられない事がすまなくて…それでも僕に声をかける先生の気持ちを思うと涙が止まらないんだ」‥彼の涙の訳を知った。「人の痛み」に涙した場面だったのだ。私は先生に、息子の号泣の理由を説明した。

先生は「自分は、負けても自分の悔しさでしか泣いたことがないです。…あいつ、俺のことを思って泣いていたんですか」と先生から大粒の涙。「勇斗を本気で指導します」先生自身が、息子の痛みに流した涙だったと、後日語ってくれた。

友の悲しみに我は泣き、友の喜びに我は舞う


「友の悲しみに我は泣き、友の喜びに我は舞う」私の好きな言葉である。自分の喜び・悲しみから、人の喜び・悲しみに感応できる人が、本当の大人に変わっていけると思っている。

22年前の結婚式。禿デブ厄年42歳の私と、初婚で一人娘の彼女から披露宴の冒頭で新郎の挨拶を熱望された。セオリーにないので訳を聞くと「初対面の親類が料理を楽しめる為には、彼の挨拶があれば人となりを理解してくれる筈。皆が安心して食事がのどを通るから…」と。それを聞いた私のオヤジは「絶対、皆が納得できる挨拶をするのだ!」と一言。

家内の招待者に好印象を与える挨拶?悩み抜いたが、結局ありのままを話すしかない。

冒頭での挨拶を詫び、家内が料理に拘ったこと、ご親族が食事が喉を通らないかの不安、私の話で安心させたい彼女の思いをお伝えするうち、ご親族の目が穏やかになってきた。

そして最後に「友の悲しみに我は泣き、友の喜びに我は舞うを、本日より、康代の悲しみに我は泣き、康代の喜びに我は舞う、をお誓い申し上げます」と結んだ。汗。

幸い、皆様から笑顔と拍手と少しの涙。家内の思惑は奏功したようだ。ただ一人、酔っぱらった義父は「あいつの首を絞めて殺したい」と仲人に漏らしたそうな。笑えない話だが、今は孫の存在もあり、関係良好をお伝えしておく。

生涯に巡り合う人数は僅か。だったら、人の痛みや喜びに泣き笑う出会いの方が楽しい筈。今日もどんな出会いや再発見があるかとワクワク過ごせることに、感謝の日々である。

皆、よい大人になりたいね!