2020年7月22日水曜日

今は、謎の会話を楽しむ!

今、東京が怖い。夜の新宿は以ての外だ。私の会社が新宿と分かると、相手は少し不安な表情を浮かべる。私は「会社は都庁前で、歌舞伎町ではないですよ」と笑う。すると相手は少し困った顔で「いや、全然、大丈夫ですから」と苦笑いする。

私は、何が大丈夫なんだろうかと考える。…感染者かと疑っていませんから、怖いけれど我慢しますから、わたし絶対に感染しませんから…どれが本意か分からない。

そもそも「大丈夫」の意味が分からない。嫌なの、遠慮なの、任せろなのか理解に苦しむ。最近の会話で連発する「大丈夫」という表現が謎だ。

上司が部下に「今晩、飲みに行くか?」すると「大丈夫です」と部下が答えた。「お誘いには感謝だが、イヤ」なのか「予定がないので、行きます」なのか、私には分からない。

娘に聞くと、大丈夫の前に発する言葉次第かも。「あ、大丈夫」「い、大丈夫」う、え、お、と並べるが、やはり判断不能。「いや、大丈夫です」なら嫌だと察する。断りの気遣いか知らんが、頼むから曖昧な「大丈夫」は止めてくれ。

こんな曖昧さで「ありよりのなし」などの若者言葉が出現したのか。有り寄りの無しは、肯定寄りの否定らしく、優柔だが「大丈夫」よりは理解できる。そう、今後は「今晩飲もうか?」と聞いたら「無し寄りの有り」と答えて欲しいもんだ。

もう一つ、息子のLINEの「り」「りって何だ?」「了解の意味だよ」…すかさず、了解とは目上や上司が使い、部下や年下は「承知しました」だと説明。すると一呼吸置いて「承知しました」の返信。これで「り」なら「ぴえん」だ。


多勢に無勢は昔の話だ



こんな認識の違いから格差や差別は助長される。コロナ禍の「東京差別」のように、未だ収まらぬ感染者に、東京生活者は肩身の狭い思いをする。少数派の排除は差別の現象だが、戦時中の平和論者のように少数派が正しいという歴史もある。

マスクをしない人、陰性の濃厚接触者、自粛しない飲食店、医療従事者に対し、危険を遠ざけたい多数派。それが高じて過剰な排除行動が、差別に発展する怖さ。

先日、そろそろ福岡に行きたいと伝えたら「無理しないで下さい。リモートでも大丈夫です」私「それって来るなってこと?」福岡「そんなことないです、GoToキャンペーンも使えませんし…」私「俺、浦安だから関係ないよ」「…」この会話。福岡の彼は東京差別でなく、私の身を案じての発言と信じたい?笑。


人種、民族、障害、貧富など、単なる個性であり多様性と心得たい。現実は多数派をターゲットにする社会だが、マイノリティーを尊重する社会にすることが最も重要だ。

スキンヘッドで頑固、口だけ達者な高齢者、私はまさにマイノリティ。せめて私に出来るのは、これ見よがしに「SDGs」のバッジをつけて、声高に格差是正を標榜するとしよう!

若者とご満悦の翁