2018年3月17日土曜日

昭和のにおい

平昌冬季オリンピックでは、開催国のパワーを世界が評価する事を痛感した。それは、東京オリンピックの責任と期待に繋がる。我々が、開催国としてのプレッシャーを感じることは悪いことではない。

日本の復興を世界が認知した1964年東京オリンピック。昭和39年のことである。私は小学3年。裸足のランナー・エチオピアのアベベや、柔道無差別級・オランダのへーシングが優勝したのは今でも覚えている。日本はレスリング、柔道、体操などの大活躍で29個のメダルを獲得してソ連、米国に続き世界3位の獲得数を誇った。

次の大阪の日本万国博覧会が1970年(昭和45年)中学3年の修学旅行が万博だった。長蛇の列の米国館「月の石」を諦め、太陽の塔で暑くて座り込んでいた。6ヶ月で643万人の来場者と、建造物とインフラ整備は「日本ここにあり」と誇らしかった思い出でもある。

男前で楽しかった昭和時代


ツギハギが、新品に替わる高度成長の大量消費時代から、オイルショックで「天然資源は有限」を実感。ファミコンは子どもの娯楽を大転換させ、今までの価値観を失うバブル期。それも土地神話崩壊と共に泡と消え、不景気の厳しい時代に突入。昭和後期は庶民も企業も、激動の時代を乗り越えてきた。

子ども達にこんな話をすると、興味深々で質問攻めにあう。教科書の世界を体感した「生きた化石」を見る眼差しは、少し複雑だが案外嬉しそうな自分もいる。

子ども達には、「昭和言葉」も意味不明らしく、えもんかけ・ズック・背広・ちり紙などは?死語だそう。私が『「背広」を「えもんかけ」に掛けて「コールテン」の「ズボン」と「チョッキ」を羽織って「床屋」に行く』と話しても、平成生まれには全く通じないので要注意。これに違和感ない方は、私と同じ昭和のにおいだ。

今は平成30年。人口25%の31歳未満の方は昭和を知らない。まさに「昭和は遠くなりにけり」である。のんびり、おおらかで「向こう三軒両隣り」は親戚同様で、不便を不便とも感じない時代であった。

昭和時代の、手紙・固定電話・集金・ノートにメモから、スマホ・PC・電子化・AIなど、ツールと仕組みは劇的に進歩したが、不思議と日々の忙しさや煩雑さは変わらない。技術の進歩と効率化の追求は、かえって業務を拡大させている。

多様性と個人を重んじる社会では、管理者に従来のマネジメント以上の緻密さと柔軟性を必要とさせる。その為にも外せないのは「あなたに従う・あなたの為に」と思わせる人間的魅力と、強いリーダーシップが前提となることだ。昔から不変なこと。

「あたりまえだの」苦楽化(クラッカー)は、昭和も今も、判断・同意・承認は「人」が「人」にするしかない。伝統と革新「不易流行」は「人が根っ子」で成り立つのだ。

昭和の良き思い出、古っ。