2013年6月28日金曜日

「舞台白粉」物語 カネボウの軌跡(後編)

第11代團十郎さん(以下、敬称略させていただきます)とカネボウが作り上げた「舞台白粉」の製造・発売秘話を紹介したい。舞台・映画全盛期にあわせ、舞台白粉、舞台化粧が進化を遂げ、今日の礎を築いた人々の物語である。



「舞台白粉」商品化は、歌舞伎の大ファンであり、常々品質の良い白粉の開発のために試行錯誤していた、ケービーケー(KBK)商会創立者の丸岡文平社長と、11代團十郎との出会いから始まった。両者の思いが一つになり、「最高の舞台白粉」プロジェクトは動き始めたのである。
その推進部隊の責任者がケービーケー(KBK)商会の研究所の常光敏治技師長である。カネボウ化粧品の名技術者として知られる方で、彼が「團十郎・舞台白粉」の処方を手掛けた。残念ながら常光さんは亡くなられているが、当時の常光チームに角田さん(後の中原工場長)と会田康二さんがいらした。会田康二さんとは、現在もおつき合いをさせていただいている。(株)コスメティック・アイーダの会長として、以前ブログでも紹介した「舞台白粉」「ステージカラー」の総販売代理店をお願いしている方でもある。



会田さんからは、丸岡さんや常光さんとの思い出を数多くお聞きしたが、舞台白粉づくりに話がおよぶと「練白粉の要は『混合の技術』にあり、常光さんの下で、特に練りこんでいくローラーの作業に、細心の注意を払ったことは忘れられない」と話してくれた。

後の團十郎との「舞台白粉」、團十郎の「色」と「持ち」を追求した白塗りの「カネボウ・ステージカラー舞台白粉」の成功に貢献することになるのが、完成の6年前、1956(昭和31)年4月に発売したステージ用ファンデーション「カネボウ・ステージカラー」である。温度差にも崩れないというのが他社に負けない特色である。

当時ファンデーションはマックスファクターのスティック状油性白粉「パンスティック」が主流であった。一般的にスティック状油性白粉は、夏仕様は冬に固まり、冬仕様は夏溶けてしまうという課題があった。常光さんはそれを「チクソトロピー理論」(粘度ある物質の分散系の時間依存性)を応用して年間使用を可能にし、全国一斉にカネボウ化粧品の販売ルートで発売したのである。

同年7月、日本色彩研究所と協力して、カラーフィルムにおいて肌色が再現できる原料配合を開発し、テレビ・映画・演劇用ファンデーションを完成させたのである。NHKでの使用を皮切りに、多くのテレビ局と映画界に使用されていった。日本のファンデーション普及の先導役を「カネボウ・ステージカラー」が担ったともいえた。

「カネボウ・ステージカラー・舞台白粉」は、11代團十郎のお墨付きをいただき、全国のカネボウ販売ルートで取扱いをしていた。歌舞伎や舞妓さんの舞台白粉市場はもとより、舞台・演劇界、映画界などのステージカラー市場は、そんなに大きくなく、事業としては厳しいものがあり、やがて他の大手メーカーが軒並み撤退していった。
こうした大手メーカーの生産中止は、小規模とはいえ業界内での供給が滞る事態を招いた。

京都でその話を耳にしたカネボウは「舞台白粉」の生産を止めるどころか、安定的生産を目指して協力会社「紀伊産業」とも相談し、カネボウ鴨宮工場での「舞台白粉」の生産開始を決断した。今から18年前の1995年のことである。

当時のことを、鴨宮工場の棟方邦彦さんに教えていただき、驚いた。
「舞台白粉」生産にあたり、あらゆる最新の化粧品生産技術と機械化を試行したという。
ところが、いくら試しても「舞台白粉」は粘度が高く現在の混合技術仕様の機械は使えない。「とり餅」のように引っ付いてしまいどうしてもうまくいかない。

最終的に彼の出した結論は、「原点に返り、手作りにする」ことであった。独自の杵を作りローラーにかけて練る。そして出来上がった「練り白粉」を一つ一つ、手作業で箆(ヘラ)を使い容器に詰めていく。効率最優先の今、なんという非効率な作り方であろう。



その「手作り」の決断から分かったことは、そもそも「舞台白粉」が、一つ一つの手作業、手作りによって完成されていて、残念ながら如何に技術が進化しようが変えようがないということであった。

11代團十郎とカネボウが作り上げた「舞台白粉」は、当初から多くの影の力を得て、半世紀を超えて今なお、処方だけでなく生産工程についても全く変わることなく生き続けていくことになったのである。現在、「舞台白粉」から「ねり白粉・ピンク」「ねり白粉・白」の2種類も加わり多くの演劇・映像関係者にご愛用いただいている。これらは、すべて「手作業」である。

團十郎の「舞台白粉」の歴史を振り返ったことで、当時カネボウが「フォアビューティフル・ヒューマンライフ」、「芸術化産業のカネボウ」として消費者や社会に貢献することを標榜していた頃の一端を知ることが出来た。
その後、2003年、カネボウは、産業再生機構入りし、一時は生産を諦めるところまで追い込められたが、幾多の危機を乗り越えながら、周りの人々の理解と協力によって「舞台白粉」の伝統、そして「フォアビューティフル・ヒューマンライフ」、「芸術化産業のカネボウ」を守ることが出来たのである。

「価値あるものは、滅びない」

どんなに時代が変わり、環境が変化しても、変えてはいけないことがある。ビジネスの世界では「損か、得か」が幅を利かす。個人的な人との付き合いは「好きか、嫌いか」が幅を利かす。世の中は「善か、悪か」が幅を利かすのだろうか。しかし、よく考えると、すべてが曖昧な物差しに思えてくる。価値観が異なる人々とのやり取りには、明確な答えなど無いのだろう。

「舞台白粉」にかけた11代團十郎の「色」と「持ち」への並々ならぬこだわり、それを製品化したカネボウの研究陣、それを手作業で作り続ける生産の人々、その人たちの「思い」を察すると、皆さんが同じ価値観を持っていることに気付く。前にもお話したが、京都で「舞台白粉」の歴史を知った12代團十郎さんが、声を絞るようにして感謝の気持ちをあわらしてくださった。11代團十郎をはじめ、「舞台白粉」にかかわるすべての人の価値観が共鳴したようであった。

人への優しさに溢れた亡き12代團十郎さんの心は「歌舞伎を愛し、市川一門を愛する方々に、いつまでも喜んでいただける」ことに、「最上の価値」を置いていた。
だから「市川團十郎」の唱える価値を、共有・協働できる人々は、全てが仲間だと思う。


我々が求め続ける「お客様の笑顔」とは、自分を取り巻くすべての「人」や「こと」にも通じる。もう一度自分に言い聞かせながら、「出会いは人生の宝」を噛みしめた。


田辺志保

2013年6月4日火曜日

「舞台白粉」物語 カネボウの軌跡(前編)

少し前、私のブログで昨年お目にかかった市川團十郎さんとの思い出を掲載したところ、最近、多くの方から「舞台白粉」のことを質問される。
歌舞伎ファンと市川一門を贔屓にされている方々には「舞台白粉」も気になるようだ。

京都での出会いは、友人の佐藤さんが取り持ってくださったご縁の席上で、私どもが團十郎事務所に「舞台白粉」をご提供させていただいている不思議を披露させていただいた。

舞台白粉は、「どのような商品で、どうやって使うのか?」「歴史は?」「どこで、いくらで売っているの?」など、お知りになりたいようである。
実は私も、京都でのスピーチのために「鐘紡100年史」を読み、当時のことを知る先輩諸氏から教えていただいて分かったことがたくさんあった。
折角なので、その時に「舞台白粉」で分かったことを、紹介したい。

「舞台白粉」の歴史

カネボウ化粧品は、120年前の「鐘紡(鐘ヶ淵紡績)」から始まっている。その名前から分かるように、もともとは繊維の会社である。1954年、化粧品を生産するケービーケー(KBK)商会という会社を設立し、本格的にカネボウ化粧品として動き始めた。
当時は、映画・舞台が全盛であり、カネボウは品質第一主義をモットーに歌舞伎・映画を始めとする各層の著名人の協力と援助を得て、ステージカラーという商品を作り上げていく。
このノウハウが他社に負けない特色となり、今日のカネボウ化粧品へと続くのである。

この年に、歌舞伎6代目菊五郎の要望で「舞台白粉」を完成している。
9代目市川團十郎は、菊五郎に芸を仕込み、東京歌舞伎座での6代目菊五郎襲名の「後援」もしており、その関係は深かったようだ。

その後、11代團十郎から「さらに品質の良い舞台白粉を」という要望に応え改良品の共同研究者として、製品化に尽力いただいた。この完成が1960(昭和35)年のことである。当時、80グラムで300円という価格であった。
現在の「舞台白粉」は130グラム、2000円(税抜)で、舞台化粧専門のお店で売られている。
個人使用でない團十郎事務所には、業務用の1キロサイズでお届けしていて、これは一般の方の商品と違い、歌舞伎座の緞帳模様も何もないシンプルなものである。



安心の舞台白粉を目指して

その昔、「白粉」おしろいには鉛が使用されていた。鉛中毒で胃腸病、脳病、神経麻痺などを引き起こす事例が多く、日常的に使用頻度が高い舞台俳優はその病症が顕著であった。
肌にも表れる「ドウランやけ」の状態は役者にとって大きなダメージであった。
1934(昭和9)年に、鉛を使用した白粉(鉛白粉)製造は禁止されたが、鉛白粉のほうが「美しく見える」と、まだかなりの需要があったとのことである。

團十郎とカネボウは、この悩みを「解決したい」と考え、「肌に安心な商品」だけでなく鉛白粉より美しく見える舞台白粉を目指した。また「練り白粉」は温度差に左右されないものでなければならない、という大きな課題も抱えていた。
舞台の特殊な照明、激しい動きにも崩れない。だからといって、固まったり、のびが悪かったりしては駄目。舞台照明に映えることはもちろん、歌舞伎の「隈取」(くまどり)のコントラストの重要な下地の「白色」の頂点を極めること。
動きの速い「荒事」をお家芸にするだけに、團十郎の求めるものは限りなく完成度の高いものであった。
「鐘紡100年史」に、「製品化に至る過程では、團十郎の厳しい要請と、度重なる試作品のやり取りがあり、製品化には苦労と困難があった」と、記されている。

激しい気性であった11代團十郎と、当時のケービーケー(KBK)商会の研究陣との激しいやり取りを経て、團十郎の執念が「カネボウステージカラー・舞台白粉」を世に送り出したのである。
あれから53年経って、今なお市川一門の舞台白粉として、愛用されているのである。

照明や太陽の下でも「肌の色」が映える、汗や皮脂にも崩れない、温度差に強い、そして何より安心・安全である、この課題に團十郎とともに取り組んだ当時のカネボウの技術が、その後のファンデーションづくりに生かされていることは、言うまでもない。

私は、化粧品づくりに身を置く一人として、團十郎とカネボウが総力を結集して、「舞台白粉」を完成させ、これが日本の伝統文化を継承することに、微力ながら貢献できることを「誇り」に思う。
(敬称を略させていただきました)  


田辺志保

2013年5月2日木曜日

「グローバルな人材」を考えたら「人間力」に行き着いた。

娘がこの春高校1年になった。制服に身を包み、期待に胸を膨らませ登校している。
真新しいスーツ姿の新入社員が、集団で電車に乗り込んでくる場面にも出くわした。この時期、多くの人が新たなスタートを切ったことだろう。夢一杯の彼らが、2か月目辺りから、やっと入った学校や職場が、自分が思い描いていた所と違うなあと感じ始める。「これが現実」と割り切ろうとしても、悔しくて気が重くなる。俗に「5月病」だ。

「思い通りにならない」は当たり前と思うこと。

そもそも「こうなる筈が、そうならない」という状態は常態化していているもので、そのストレスをどう克服するかである。「まあ、いいか」はストレス回避にはなるが、それは「倦怠」や「諦め」という副作用を引き起こす。その結果「ここは、不向きだ」となる。

だが、結論を出すには早すぎる。縁あって入った学校や職場が、まだまだ、どんな所で他にどんな仲間かを知らないままだ。勿論、環境を変えることは悪いことではない。ただ同じ轍を踏まない為にも、新しい仲間がどんな人たちで、何を思い、何を目的に働いているのかを、少し時間をかけて観察してみよう。人生は長い。

若い人には聞きなれないかもしれないが、昔から「石の上にも3年」と言われ、そのくらいの経験が必要で、性急に判断するなということだ。グローバル化が進み、生涯雇用、年功序列などの昔の「会社に奉公」とか「上司、先輩は神様」の発想はなくなっているが、現代のグローバル化でも共通な「夢を持つ大切さ」や、「ミッション」「コンセンサス」「チーム」というワードは大切で、今も昔も同様に言われており、本質は同じである。

海外の方とビジネスしていても、相手先様の所作や言葉の違いはあるが、個人が醸し出す「人間力」「魅力」のオーラは万国共通である。外見や、態度など全く関係ない。それでも気になるときは「概念が生み出す間違った判断」と思ったほうが良い。

2年前、カネボウコスミリオンという会社に来て「一体この会社は何をする所だろう」と思った。一貫して、決まった流通にカネボウや花王の商品をいかにして売るかを業務として歩んだので、「未知の取引先専用のオリジナル化粧品づくり」というOEM概念がない。
「自分が分からないのだから、他の人はもっと分からないはず」。それが、昨年会社のホームページの全面刷新と、ついでに「社長ブログ」まで開設した理由である。

最近、そのホームページに海外からのアクセスがあるようで「社長ブログ」も英語版で加えようという話しが出た。英語は全くの「素人」である。大学まで英語の授業は存在したが、恥ずかしい話だが全く身についていない。

海外でも、私はすべて「日本語」で通している。中途半端に稚拙な英語を使い、誤解でもされたら大変である。いつもの調子の日本語で、相手の目を見て、気持ちを込めて話しをしている。すると、お互いが自国語で話しても、コミュニケーションは、ちゃんと成立しているものだ。そんな話をしていたら、「それは、あいだにいる通訳の方のお陰だ」と言われた。ごもっともである。

「国内市場は限界」と言われ、多くの企業がグローバル化を進めてきたが、語学力だけでは通用しない。「日本語しか話せない営業力のある人」と「営業力はないが英語が堪能の人」の二者択一を迫られたら、迷わず前者を選ぶ。「営業力」は「人間力」にも通じ、「魅力がある」とか「感性が豊か」ということは、とても重要。その人の生き様と中身が出るから。そこに語学力が備われば、完璧である。

心躍る「グローバルな方」との出会い。

最近、仕事でそんな素敵な方と知り合えた。
ファミリーマートさんと共同で開発した専用メイク、新「mfc」キャンペーンの応援をお願いしたモデル・リーザさんである。
ドイツで生まれ、日本ではドイツ人学校に通って育ったので、純日本的な礼節より欧米的なフレンドリーなオーラが出ている。それだけに、芸能界の先輩、後輩の付き合いなどを心配してしまうが、お会いすれば必ず彼女のファンになること間違いなしだ。
テンポのある会話や、お互いのブログの話題などに、賢さと、飾らない人柄の良さが滲み出ていた。彼女の「LIZAのブログ」を拝見したが、価値を見出す発見力と、彼女らしいグローバルな感性で捉えた写真と英語の表現力に驚いた。早速お気に入りに登録した。

決して「田辺は『きれいな女性』だから気に入ったな」ではない。是非、彼女の内面に注目してやって欲しい。これからのグローバル時代で活躍する一人だと思う。彼女の発するエネルギーが、太陽のように周りを照らし、楽しくさせてくれるよう祈念している。
LIZAオフィシャルブログ
mfc LIZAメッセージ動画

心に響く「わが人生の宝」と思う出会い。

リーザさんのように若い方の出会いも感激だが、自分にとって「目指したい太陽」のような「あこがれ」の方との出会いもあった。それは、今なお、寂しさが消えることのない「市川團十郎」さんとの出会いだ。
昨年秋の出会い以来、私が團十郎さんに魅せられた理由をあれこれ考えて分かったのだが、その一つに「團十郎さんの声」がある。
私も人前で話す機会が多々あり、多少の言葉使いと身振りで相手に伝える術は身に付けたつもりだが、團十郎さんはそんな小手先のレベルではない。相手の心の奥深くに届く「音」である。だから「共振」する。天龍寺で、「カネボウさん、有難うございます」という「音」を聞いたときに、私からの感謝が「共鳴」したのである。
日本の伝統文化の歌舞伎役者として、常に厳しい視線を自らに向け、命の意味を考え、生きることの孤高さを内に秘めながら生き抜いた團十郎さんは、まさに世界の人々を魅了する「人間力」をお持ちの方であった。
できることなら、いま一度「團十郎さんの声」を聞きたい・・・。
魅力的なあのお声が再び聞けないことを、心底かなしく思う。

先日、市川海老蔵さんのブログが開設されていた。團十郎さんの意志と市川家の血を受け継いでいる方である。感慨深く、お気に入りに登録した。
成田屋 市川團十郎・市川海老蔵 公式Webサイト
 (※新着情報でこのブログを紹介いただいております)

これまでに多くの方の「人間力」に感服してきた。そしてこれからも、素晴らしい方々とお会いしたい。その期待で一杯です。

「出会いは人生の宝」である。
次回も「心震える素敵な出会い」を紹介してみたいと思います。
                                 

2013年4月18日木曜日

楽しい未来に向けて、肝に銘ずること。(後編)

この世で変えられないのは「己の過去と、人の心」である。
そして、変えることができるのは 「己の心と、自分の未来」

前編で「心構え」を変えてから、後編では「優しさ」を持つ方法です。

「優しさ」を持つ、秘訣その1
「相手の感情」を知ること。

数年前の第一生命主催の「サラリーマン川柳」の作品に
「ごみの日に 出したいごみは まだ寝てる」というのがあった。傑作だと思った。
講演などで紹介すると、女性の方は、亭主が日曜日にパジャマ姿で寝転んでいる場面を想像するらしい。
休日に家でゴロゴロしている亭主は粗大ゴミなのかもしれない。この川柳を、多くは女性の作品と思うようだ。
しかし、真実は違う。これを作ったのは男性である。
平日の朝、会社に出勤する亭主に向かって、パジャマ姿の女房からの一言、
「あなた、途中のゴミ置き場に生ごみを捨てて行って頂戴」。
亭主は、ごみを出すために、かばんとごみ袋を左右に持って家から出るということらしい。
どうやら、ごみは奥様のようだ!
ちなみに「まだ寝てる 帰ってみれば もう寝てる」という川柳もあった。

当たり前だが、人が感じる「嬉しい」「悲しい」「楽しい」気持ちになるのは、自分の周りで起こる色々な出来事に呼応している。つまり「見る、聞く、嗅ぐ、味わい、触れる」という五感で判断して、一喜一憂する。
その判断基準は、今までの自分の生き様というか、経験によって作り上げてきた「既成概念」が目安になるので、当然だが他の人とは一致しない。
親子だろうと、夫婦だろうと立場、環境、経験が異なるので、味噌汁の味噌は「白味噌」か「赤味噌」かで、けんかになったりする。
ここで忘れていけないのは、相手側に立った見方が、おろそかになる、ということだ。

「人」は2歳から4歳までに、「人間」になろうとする。つまり「自我」に目覚める基本的な準備としての「概念」を作るそうだ。
「大きい」「小さい」「花」「動物」などの判断が、できるようになる。
その後、「人間」への成長過程で、無数の概念づくりをする。
「真偽」「美醜」「善悪」などである。ある面、ピュアな心が消えていくのかもしれない。
これは環境が重要だから、国が違うとか、周囲の環境によって著しく異なってくる。

学者のなかには、「『概念』とは脳の感覚機能の連合体による勝手な判断」と言い切る方もいる。だから、変えられる。我儘な自我を作り上げた概念をリセットしてみることだ。
相手の心理にせまり、立場を変えて見直すことで、自分が変わる。
しかし、相手の心を深読みしても、その想像が全く違っていることが多いから厄介だ。
では、具体的にどうすればよいかを考えてみたい。

「優しさ」を持つ、秘訣その2
「相手の感情」の次に「相手の望む心」に応える。
「幸せ与え行動」のススメ。

まず、人の見方は全く違うということを、理解すること。目に入る映像は、自分の眼球と網膜に映して見ている。この時点で相手の網膜にはなれない。
私が子どもの頃に見た故郷・静岡の大浜海岸の「青空」は、息子が広島で見た「青空」と同じわけがない。
同じ時刻に同じ場所で同じ「青空」を眺めると、かなり同じ概念に近づけるかもしれない。
しかし全く同じ「青の色」にはならない。相手との同質化自体が不可能、と思い知ることだ。せめて、相手の心に近づき、相手が嬉しいと思うことを「行動指針」とする以外ない。

どんな人でも、「人間関係の中で感じる幸せ」は4つある、と言われている。

「愛されている」
「ほめられたい」
「必要とされている」
「役に立っている」
この4つと言うが、どうだろう。

人は自己の存在意義を求めている。その答えとして、己の存在を認められることで得る心地よさや、満足感などで、「幸せ」と感じるのだろう。
わずらわしい人間関係渦巻く中で、良好な周囲の人々との接し方やマネージメントをするには、この4つの幸せ感を相手先に充足させることが、実に効果的であり大切になる。
冒頭部分で触れた、「立場変われば見方も変わる」でおわかりのように、我々は常に
「愛されたい」「ほめられたい」「必要とされ」「役に立っている」と思われ、評価されたい。だからといって、全ての人が、自分の満足を求めてそうされたいと思っていては収拾がつかない。
相手に求めず、「自分しか変わらない」の言葉通り「愛する」「ほめる」「必要だ」「役に立っている」と相手に発信するのである。求めるのでなく、与えるのである。
後輩や、部下や、仲間が増える度に、相手への幸せ与え行動は活発になる。
こちらからの与える発信が増えていくのである。
人間関係の中で感じる幸せが満たされてくると、「生きがい」へと繋がるようだ。
会社組織の活性化にはこの「蔓延」と「連鎖」が非常に重要になる。

「短所改善法」を減らして、「長所伸展法」でほめまくる。

我々はつい、「現状の課題とその対策」で業務活動を回してしまう。
出来ていないことを直そうとする短所改善法から長所進展法へと大きく変換する必要がある。私も含めて、経営者の方々とこんな話をすると、「うちでは、好事例の表彰など、ほめる・認める活動を披露する場面を作っている」とおっしゃる。しかし、出来ていないことへの指摘や対策のほうが圧倒的に多いはずである。
組織の運営スキームや人事的評価にまで落とし込まれた企業は、どのくらいあるのだろうかと、考えてしまう。

自分の側から見れば当然、愛されたいし、認められたい。しかしそれを求めるのでなく相手に与えることに喜びを見出す。すぐには無理かもしれないが、相手に幸せな気持ちになっていただくと、必ず自分に撥ね返ってくる。

「友の悲しみに我は泣き、友の喜びに我は舞う」

私も皆さんも、実はそのことを知っている。
なぜなら、「この人は魅力がある」と思える人って、自分が、自分が、とアピールする人ではなく、「人のキラキラオーラ」に反応する受信専用電波を発している人だ。「私を認めて」から「相手を認める」へ切り替えることで、相手は「友」となる。
友の魅力を見つけたら、素直に反応し、嬉しいと喜べる度量も備わるのだ。
自分のことより、相手を思い、いつも人を気遣う謙虚な心。なんて魅力的な人だろう。

それにひきかえ、私は、今日まだ誰も笑顔でほめていない。認めるために、ほめるために相手をよく観察してみよう。そして、幸せな気持ちになっていただこう。

やはり、楽しい未来の前提は、
この世で変えられないのは「己の過去と、人の心」であり、変えることができるのは 「己の心と、自分の未来」しかないのである。


2013年4月4日木曜日

楽しい未来に向けて、肝に銘ずること(前編)


この世で変えられないのは「己の過去と、人の心」である。
そして、変えることができるのは 「己の心と、自分の未来」
 
昨年、ブログ開設挨拶の中で「楽しく充実した日々を送る」ために、朝目覚めたら「まだ何も失敗していない新しい一日」が始まったと思い、その日が終わるまでに「明日に好奇心が持てる」ことを見つけよう、と紹介した。

そのブログを見た知人から「本当に、そうやって日々過ごせば、明るい未来が来るのか?」と、問われた。その時、私は「ちょっとした秘訣や、そうなりたいという決意は大切」と付け加えた。それは何なのか、自分にも言い聞かせる意味で紹介したい。

ステップはふたつ。
まず、「心構え」を変えること、次に「優しさ」を持つことです。
硬い話ですみません。興味のある方はどうぞお付き合い下さい。

「心構え」を変える、秘訣その1  
「後ろ向き」気持ちの「ついてない」モードをリセットして、次に最強モード
「前向き」になる「ついている」ボタンを押す。

休日、近所の千葉・浦安地区を散歩する。すると、いたる所に「2年前の大震災」の爪あとが残っていることに気づく。

街は、そこに暮らす人々と共に変化していく。新興マンションが立ち並ぶここら辺では、子どもたちが通う小学校が、数十年後には老人ホームに転用できる造りになっている。
しかし、ひとたび想定外の災害が起きると、修復は容易ではない。
東北の被災地とは比べようもないが、浦安でも「液状化現象」で大きな被害が出た。
下水道が寸断されて、小学校、中学校ではその年の秋まで校庭の簡易トイレで用を足していた。全ての地区での公共被害をまとめ、予算を計上し優先順位を付けて、本格的に修復工事が動き出すまで時間がかかるという。
結果、公園の囲いとか、道路わきの花壇などの細かな所が、まだそのままになっている。
近くの公園で、1メートル以上地面から飛び出した下水管を、「モニュメント」として残す工事が始まった。賛否両論あるそうだが、その目的が皆に伝わればと思う。
何のために、何を、どう残すか、である。
どの街も変化するが、「そこに人がいる」ことは普遍である。
「そこに人がいる」かぎり、全ての物、全てのこと、全ての心が「人に優しくあるべき」というのが、変えてはならないテーマなのだと思う。                            

以前読んだ、重松清の小説『定年ゴジラ』では、東京近郊のお洒落な新興住宅地区の人々が一斉に定年を迎え始め、暇なリタイア・シニアたちが昼間歩き回り、公民館が「憩いの場」になっていた。
笑えない話であるが、わが街もそうなっていくのだろうか。
30年後を想像してみる。多分、私はいない。家内はきっと元気はつらつだ。
そして、彼女は30年後に何を思うのだろう。

30年後、待ち遠しくなる温かな風景を絶対につくろう。

子どもが少なくなり、久しぶりに子どもの姿をみかけると微笑んでしまう。
平日、近所のスーパーに行く。昼間、暇なお父さんが目につく。
心得たもので、レジの女性がお客様の目をみて「いらっしゃいませ」と満面の笑顔で頭を下げるのだ。スーパーの最大の販売促進は、お客様への笑顔。いちころだ。
一方、奥様たちは皆元気。子育ても終わり亭主の世話もそこそこに、お仲間との趣味の集いや、サークル活動、お茶会と、笑い声が絶えない。

大切なのは、そこがどんな街並みになろうとも、高齢になった住民が近所を歩くのに不便をしない、現在の子どもたちが40を過ぎて地元を愛し、生き生きと暮らしていければ申し分なしだ。
簡単でないことは百も承知だが、「嫌なこと」や、「辛いこと」を、ちょっとした受け止め方で「楽しい気持ち」に変えることができれば、「人に優しく、自分に厳しく」の心が育ち始める。そのために、まず自分が「心構え」を少し変えて、「相手の求める心」を知る。必ず行動が変わってくる。それが周囲に伝わる。
皆がそうなってくると空気が変わる。吹く風さえも穏やかに感じられ、家の中にやさしい「家風」が生まれ、学校にも温かい「校風」、街全体の風土も変わり、勤め先にも新しい「社風」が吹いてくるかもしれない。

「ついている」「ついていない」とは何だろう。

「茶柱が立っている」「電車に間に合った」「朝、快晴」など、「今日はついている」と思うことは多い。しかし、逆に、朝目覚めると寝過ごしてしまい、カーテンを開けると大雨、間に合わないので、お茶一杯も飲まずに家を出たが、駅の階段で転んでしまい、電車にも乗り遅れた、などと続くとウンザリしてくる。

こんな時、「きっと自分は今、運勢下降気味だから」などと悲劇のヒロイン・ヒーローになっていく。そして、こんな調子で「ついていない」事件が続くと、ストレスも増大、どんどんマイナス思考が働いてしまい、「私は不幸で、何もかもついていない」などと考えているうちに「人生」そのものが、ついてないなどと「負のスパイラル」に巻き込まれる。
本来、「ついている」「ついていない」は、自主基準だし、二者択一なので、半々の確率で出くわすはず。ならば、自分は断然「ついている」シリーズのほうが多い、と信じたほうが得だ。今すぐ前向きモードに切り替わる「ついている」ボタンを押そう。

「心構え」を変える、秘訣その2
「~なのに、なぜ」の恨み節は捨てること。

知り合いの医者に「ストレスとは?」と尋ねたら「こうなりたいのに、そうならない状態」と返された。となると、なにもかもストレスになる。私もストレスの連続である。

朝の目覚まし時計が鳴ると「もっと寝ていたいのに」、食事のたびに「ほんとうはあれが食べたかったのに」、子どもの顔を見て「もっと素直なはずなのに」、スキンヘッドの我が頭を「こんなはずじゃなかったのに」、仕事仲間に「あれだけ説明したのに」など。

並べただけでも「~のに」のオンパレードである。必ず「~のに」には、これだけしてやったのにという「恨み」が横たわったりしている。そしてその後は必ず「なぜ~」と続くのである。

自分以外を原因とする、この思考は、止めたほうが良い。自分には落ち度が無い発想なので、すべて相手が悪くなる。なかには相手のミスで起こる事件もあるが、全て相手が悪いから、自分は変えない。相手様が変われ!となるので、課題も対策も自分でコントロールできない。つまり解決しないのである。
「世間が悪い」「お天道様が悪い」となると、空しいばかりで、結局あとに残るは「恨み節」だけになる。
そうならずに、自分自身、前向きになり、上り坂に進むためには、
「こうしたいのに、そうならない」のは、相手ではなく「自分」の責任で、自分の行動、考え、取り組み方を変えないからだ、と思うことだ。

やり方は、簡単。「~のに」から「なぜ~」にするだけである。たとえばこうなる。
「主張したいと思う子どもを、なぜ素直でないと思うのか」
「うまくいかないのは、説明不足か、その内容か」
「何でも世間が悪いといってしまうのは、なぜなのか」
と、自責モードに変換すると自分をどう変えるかという「答え」が見えたりする。

この世で変えられないことは 「己の過去と、人の心」である。
そして、変えることができることは 「己の心と、自分の未来」だけ。

これを肝に銘ずること。そのほうが解決に近づく。
「ついている」ラッキー、と思うのも同じこと。「ついていない」ことが逆になる。
「朝起きるのがつらいのは、寝ていた証拠」
「雨が降るから、晴れがうれしく感じられ、おまけに、お肌が潤う」
「階段で転んだけれど、骨折しなくてよかった」
「乗り遅れたけど、次の電車に無事乗れた」
「相手が遅れ、待たされた、けれど、無事で何より」
「嫌な相手、おまえはこうなるな、と教えてくれている」

人生、どんな困難な坂に遭遇しても、自分自身に「前向き」ボタンを押すだけである。

ついでにもう一言。ずっと昔、故郷・静岡の近所のお寺の掲示板に書かれていた言葉が忘れられない。

「子ども 怒るな 来た道だ、年寄り 叱るな 行く道だ」

2013年3月15日金曜日

貴方は大切な人に、伝え続けていますか?(後編)

一昨年(2011年)東京に転勤で戻った。この11月、4年生になる息子の高洲小学校で、彼が広島で受けた平和教育を私が受け持ったのだ。

民間からトラバーユしたばかりの担任の君塚先生は、平和教育に悩んでいた。たまたま息子から聞いた広島の「平和教育」に興味を示し、私からの詳細を聞くや、何と私に授業を依頼してきたのである。


「2時限も受け持って良いのか」と思ったが、校長先生も参加してのオープン授業(父兄の自由参加)になり、レジュメを作って、授業に望んだ。

冒頭、まずみんなに「アオギリのうた」をきいてもらった。次に歌詞カードを配り皆で歌う。説明もしていないので、新しい歌の練習かと思っている。


その後、この歌の背景と「アオギリの木」の歴史と息子の体験、我が家族の体験を語る。


・「アオギリのうた」の意味
・戦争とは何か
・今回の目的は何か
・何をしたら良いのかと、話をしていった。


事実だけを語ろうと決めていたので、善悪の主観は語らず、本人たちに考えてもらうことを心がけた。


・広島原爆一発で14万人の人々が死んだ事。
・今世界中にある核兵器を全部あわせると、広島に落とした規模の原爆「リトルボーイ」147万発分の核兵器が存在している事。

・文明と共に昔から続いている戦争。今も地球のどこかで戦争が行われている事。

・平和とは「戦争のない状態」を指し、「直接的暴力」である戦争の解消が「平和」の実現といえる。これからは「構造的暴力」の解消を願う事が大切で、これを「積極的平和論」と呼ばれている事。

・「構造的暴力」とは、人間社会に存在する貧困・不正・差別・抑圧などの状態を指し、この存在を解消しない限り「真の平和」とはいえない。
これが「積極的平和論」だという事。

小学生に語るには、難しい課題であろう。今戦争を知る人は少ない。その体験者自体が年々減少するので、教師も知らなければ親も知らない。戦後67年経つので当然だが、我々は風化させてはならない。

最後に、彼らに強く伝えたかった事は、「アオギリのうた」と広島の「平和教育」の意味や、想いを理解する事は勿論だが、問題はその後である。

平和への願いを、子どもたちに伝えていく。その子どもたちが、それを受けて、「私達は何をする?何が出来る?」という能動的行動を考えることが、最も重要で大切だと思う。

授業を締め括る前に、もう一度「アオギリのうた」を全員で歌ってもらった。オープン授業だったので、父兄の方も何人かいらした。皆での大合唱となった。
最初に、この歌をきき、皆で歌った時と、全く別の歌になった。
作り手の想い、広島の真実、平和への願いなどが、歌詞の行間や、一音一音から感じてくるのだろう。最初の歌とは比べようもない。皆にもそれがわかったようだ。

2時限の授業は、あっという間に終わった。何処まで伝わったかは判らない。点数のつけようのない授業だ。

1週間後、担任の先生が、生徒達の「平和教育を受けて」の感想文を届けてくれた。
各自の感想や理解度などの違いはあれども、伝えたかった大事な事は分ってくれていた。
そして何より子どもたちの感想文が、素晴らしいのである。
純粋に彼らは「人を傷つける事は良くない」と教えられてきた。故に、武器の存在意味と、争い事の原因、正当化の大儀の矛盾などに、真っ直ぐおかしい事だと主張する。
そこには、大人たちの心に存在する「変な妥協」や諦めは無い。

「私の出来る事は、この歌や授業での知識や感想を、周囲にいる一人でも多くの人に伝える事だと思います」という女の子からの感想文を読んだ時、本当に授業を受け持ってよかったと実感した。同時に、その子たちに教えられた。

『貴方は、自分の周りの大切な人に、伝え続けていますか?』ということを。
                                   
田辺 志保


⇒広島市の協力をいただいて、広島市HPに掲載された
  森光七彩さんが歌う「アオギリのうた」を是非きいてください。

2013年3月1日金曜日

貴方は大切な人に伝え続けていますか?(前編)




平成21年(2009)広島に来て初めての夏、小学2年の息子が受けた「平和教育」に衝撃を受けた。6月に入り、ふろ場で息子が大声で歌い始めた。

電車にゆられ 平和公園
やっと会えたね アオギリさん
小学校の校庭の木のお母さん…

聞いたことのないメロディーと歌詞。
「何だ、その歌?学校で習っているのか」
「そうだよ。今クラスで習っているんだ。練習して全員で歌えるようになったら、アオギリのお母さんに会いに行くんだよ…」
息子は当たり前らしいが、私にはよく判らない。

「アオギリさん」「おかあさん」「会いに行く」ゆっくりと一つ一つ聞いていく。断片的な話と、家内からの情報とつなぎ合わせ見えてきた。

「アオギリのうた」とは2001年「広島の歌」グランプリを受賞した歌だ。この作詞作曲者が当時小学3年(9歳)の森光七彩(もりみつ ななせ)さんという女の子である。この歌を森光さんが作った背景には、彼女が受けた「平和教育」がある。自分達の校庭に植えられている「アオギリ(青桐)の木」の存在から物語りは始まる。

これは今を遡る67年前の朝にまで及ぶ。昭和20年(1945年)8月6日、8時15分、広島市に米国のB29から原子爆弾が投下された。通称「リトル・ボーイ」は、一瞬で広島市民14万人の命を奪った。

爆心地から1,300mの広島逓信局の中庭に「青桐の木」が植えられていた。当時、爆心から半径2キロは一面焼け野原と化し、高濃度の放射能で「今後75年間は、草木一本も生えない」と言われていたが翌年の春、類焼を逃れた「青桐」から新芽が出たのである。夢も希望も失った人々は、青桐の芽吹きに生きる希望を見出したのである。


アオギリはその後も市民の希望として大切に育まれ、1973年に広島平和記念公園に移植。現在も、広島平和公園内の資料館の隣に「被爆アオギリと、その子どもアオギリ2世」が並んで立派に根を張っている。この「被爆アオギリ」のおかあさんから、根分けをした子どもたちが、広島の小学校の校庭に植樹されているのである。

入学時、校庭の「アオギリの木」に気づく1年生は殆どいない。しかし夏を過ぎると小学2年生のお兄さん・お姉さんが制作した紙芝居を見ることで、何となく「アオギリの木」を理解する。

そして2年生になり「アオギリのうた」の練習が始ると校庭のアオギリが現実になり、アオギリのおかあさんが、平和公園で待っていると分かる。

アオギリ2世が校庭にある小学校では、低学年の課外授業で歌を覚え、実際に広電(広島電鉄の路面電車)に乗って「アオギリのおかあさん」に会いに行くのである。そして、その思いを紙芝居にして1年生へと伝えていく。その後、高学年での平和記念資料館見学へと続くのである。

息子は2年生に転校して来たので「アオギリのうた」で初めて被爆アオギリを知り、校内のアオギリのお母さんに会い、被爆アオギリの前で「アオギリのうた」を全員で歌ったのである。

私自身、被爆で幹の中央が裂けたまま、今なお元気に葉を生い茂らすアオギリを目の前にした時、その生命力と力強さに鳥肌が立った。

アオギリのCDで歌を覚え、息子の案内で平和公園に3回行く事になる。我が家の平和教育である。平和公園の資料館横の「被爆アオギリさん」前のボタンを押すと歌が流れてくる。澄んだ声で力強く歌う広島少年少女合唱団の「アオギリのうた」は、聞く人に多くの感動を与えてくれる。


「アオギリのうた」 作詞/作曲 森光 七彩

電車にゆられ 平和公園
やっと会えたね アオギリさん
小学校の校庭の木のお母さん
たくさん たくさん たね生んで
家ぞくがふえたんだね よかったね
遠いむかしのきずあとを
直してくれるアオギリの風
遠いあの日のかなしいできごと

資料館で見た 平和の絵
いろんな国の 人々や
私がみんなが考えてゆく広島を
勇気をあつめちかいます
あらそいのない国 平和の灯(ひ)
遠いむかしのできごとを
わすれずに思うアオギリのうた
これから生まれてゆく広島を大切に

広島のねがいはただひとつ
せかい中のみんなの明るい笑顔


私は平和公園の「アオギリのおかあさん」の歌をきいて涙した。生きる勇気と平和への願いを、森光さんが誰よりも理解しているのだ。

家族で見に行った井口台小学校の校庭の「アオギリの木」の前で、息子が覚えたての「アオギリのうた」を我々に伝えようと歌う姿にも感動した。

ここに住む子どもに「平和の尊さを伝える」を使命とする大人たちと、それに応える子どもたち。こんな体験の出来る広島に感謝で一杯だ。

被爆アオギリから芽吹いたアオギリの苗が、昨年は東北震災の放射能被害で苦しむ福島原発区域の人々に送られた。他にも災害にみまわれた各地に「アオギリの木」の苗は送られているときく。

夏休みの8月6日、広島の小学校は登校日である。そして朝8時15分、全ての市民がその場に立ち止まり、黙祷を捧げて仲間の死を悼む。

広島の平和教育の歴史は長い。当初は平和記念資料館で、直視出来ない悲惨な姿や写真を目に焼き付ける事で、戦争の悲惨さを伝えた時期もある。

しかし児童の恐怖心が先行してしまい、最適でないと「アオギリのうた」が「平和教育」の題材になったと聞いている。これは全ての小学校ではなく、地区や自治体で各様に展開しているという。

広島でのこれらの活動の根底には、「平和」への切実な願いである事はいうまでもない。

田辺 志保


https://www.city.hiroshima.lg.jp/soshiki/46/11397.html

2013年2月8日金曜日

ひとの「命のはかなさ」を乗り越えて。

「市川團十郎さんの訃報」に接し、ただただ驚くばかりである。

節分の翌朝、2月4日、新聞・テレビで市川團十郎さん急逝を知り、愕然とした。
先月、このブログで京都で市川團十郎さんにお会いして、その圧倒的存在感と、穏やかなお人柄、謙虚な物腰に、いっぺんに魅了され、熱烈な「團十郎ファン」になってしまったことをお伝えした。
「聖マウリツィオ・ラザロ騎士団」ナイト称号受勲式の席で、激しい気性であった11代團十郎さんとの「舞台白粉」完成までの苦労話に、熱心に耳を傾けてくださり、ご挨拶では、あの腹の底に響くような声で、我々に勇気百倍のエールを送っていただいたばかりである。
そして、先日「市川團十郎事務所」から、3月公演予定だったル・テアトル銀座での「オセロー」の断念のお知らせをいただいた。それだけに、4月、歌舞伎座再開場での存在感ある、充実の芸を期待した。

昨年末、天龍寺でのお礼と、「市川團十郎さんとの思い出」をブログに掲載したくて事務所にお願いにあがろうと訪問したい旨お尋ねすると、ご丁寧に「京都公演が終わる年末以降に」と、お返事を頂いた。その翌週、團十郎さん入院の報せを耳にした。
一時はブログ掲載をあきらめた。
しかし、「今だからこそ、團十郎さんにエールを送れば」とのひと声に、「そうだ、一刻も早い復帰を願って、これが微力ながらエールになれば」と信じて、市川團十郎事務所に「掲載ブログ構成」を送らせて頂いた。
なんと、翌日に掲載了解のお返事を頂いたのである。
有難いことに、團十郎さんは、本人も知らなかった「舞台白粉」の経緯が分かり、なにか感じる所があったようで、事務所から退院後の再会のお話も頂戴した。本当に嬉しかった。

常に、周囲の方々への感謝と気配りを絶やさぬ方で、あの日も「天龍寺龍門亭」での会食が終わると同時に、奥様と揃って出口に並ばれ、式典出席者全員に深々とお辞儀をしながらお礼を述べられていた。逆に我々が恐縮してしまうほどであった。

前回、「限りある命を精一杯生きたい」と言う話をしたが、早すぎる死は痛恨の極みです。

悲しくて残念なことですが、こうして私たちは常に「大切な人」を失っていきます。
私自身は「生きていくとは『死ぬ』までの時間をどう過ごすかだ」、と心に刻み、悔いの無い様に過ごしていければ良いのですが、人様に対しては、「もっとあの人にああすれば」とか「こうしてあげたかった」という後悔の念が消える事がないのです。

心配ばかりかけて、天国に逝った「おふくろ」には、未だに写真に向かって謝ることがあるくらいである。

ひとの命の想いは、自分が生まれたことへの感謝とともに、大切な人に伝える責任があると思っている。それぞれの身近に起こる「命のはかなさ」を実感する場面で、悔いが残らないようにしたいので、伝え続けようと心に決めている。

一昨年の11月、息子が通う小学校で「平和教育」授業をやらせていただいた。
4年生のときの担任の君塚朝子先の熱意と、保護者の人望も厚い高橋光法校長の後押しで、公開授業で子供たちに、「命の尊さ」を伝える場を頂いた。
今、教育現場で多くの課題が取り沙汰されているが、お互いが己の立場から少し離れて、子供の幸せに「全てのベクトル」を合わせれば良好な環境が作れるように思う。
以前暮らしていた「広島」の人たちも心豊かな方々で、我が家の子供は、相手の痛みがわかる先生と友人に囲まれて、素晴らしい小学校生活を送ることが出来た。
幸い、こちら浦安に戻っても私たちの周りはそんな人たちばかりで助かっている。
そして担任の君塚先生が、息子から広島でもひと際思い出深い「小学校の平和教育」を、聞き出して、実際にクラスの授業に取りこんだ。加えてそれを私に語らせるという、思いもよらない出来事に発展した。高橋校長を始めとする、まさに多くの方々が純粋に「子供の成長を願う」というベクトルの集結によって実現したのだと思う。

次回は、この時の出来事をご紹介したいと思います。68年前の「広島の原爆」の中で、焼け野原の中を生き抜いた「アオギリの木」、その枝別れをした苗木は多くの人たちに勇気と元気を与えている、という話です。
そして、それがあの東北の大震災で「福島原発で悩む地」にも、地元の方々に勇気と元気を出して頂きたいという願いを込めて植樹されていることを。
私は、2009年の春に東北の仙台から広島に引っ越しましたが、家族で暮らした仙台や仕事で訪れた東北各地の方々の温かい心は、今も忘れられない。

かれこれ10年以上前の本社時代から同じ街に住み、同じ部門でも働いた友人が、2010年、彼の地元である岩手の支社長に昇格し、嬉しそうに広島のオフィスに電話をくれました。「夫婦2人で、おふくろの待つ盛岡に行きます」との報告に、私は自分の事のように嬉しくて「頑張れよ」と激励しました。
その彼が未だに「行方不明」です。暫くは、彼の携帯電話で生声の留守電メーセージを聞けたので、望みを捨てられませんでしたが、昨年、彼の告別式に出席しました。
誰よりも熱血漢だった友を、失ってしまった無念さに涙が止まりませんでした。
残されたご遺族の方々のことを思うと心が痛みます。
お元気で心穏やかな日々を過ごしてくれることをお祈りするばかりです。

2011年3月11日、東北の大震災のことを心に刻みつつ、皆さまにもお伝えしたいと思います。
 
結びになりますが、
市川團十郎様、どうか安らかにお眠り下さい。そして團十郎様のご意志を継ぎ、成田屋の宗家、市川一門が更に力強く前進されますよう心よりお祈り申し上げます。