2014年12月22日月曜日

2015年に向けて

2014年が終わろうとしている。
我が社は来年に向け、これまで以上にお客様から喜んでいただける「良きものづくり」に一層精進することが最大の使命である。お取引先様の求めることに、どこまでカスタマイズできるかであり、社内の合言葉である「執念あるものは可能性から発想する」を忘れずにひたすら邁進するだけである。

私は本年も、思いつくままに、子どもにも「恥ずかしい」と随分言われながら、ブログを書き綴ってきた。大半が己への戒めばかりで、如何に自分が未完成かを実感した。「未完の青年」は無限の可能性を秘め、好奇心でゾクゾクするが、私は「未完の熟年!?」。未完の青年に「足るを知り、死ぬまで修行だぞ」と押し付けるしか能がないのである。

先日、息子が所属する市川七中柔道部の部長、「全国中学生大会」で引退した3年生に、「この本を読んだら」と、1冊の本を渡した。
彼は息子と違い、無類の読書好きなのを聞いていたから、高校受験モードに切り替えただろうと案じつつ、「面白くないかもしれないけど、じっくり読んでほしい」と付け加えた。
しばらくして、「3回読み返しました」と報告してくれた。嬉しかった。

すすめた本は、仙台・秋保の慈眼寺の塩沼亮潤(しおぬまりょうじゅん)住職の著書『人生生涯小僧のこころ』。塩沼住職は、荒行のなかでも最も厳しいといわれる「大峯千日回峰(おおみねせんにちかいほう)」を成し遂げ、さらに断食、断水、不眠、不臥を9日間続ける「四無行」も満行し、大阿闍梨の称を得ている方である。
「大峯千日回峰」とは、奈良県吉野の大峯山で片道24キロ、高低差1300メートル以上の山道を16時間かけて1日で往復。これを1000往復、4万8000キロを9年間かけて歩く超人的修行で、いったん行に入ったならば足が折れようが、熱が出ようが休めば、そこで終了。決して途中で止めることができない。途中で止める場合は自ら命をたたなければならないという、凄まじいもの。吉野金峯山寺1300年の歴史上、「大峯千日回峰」を成し遂げたのは二人という。

住職は1000回の往復中、苦しいとき、動けなくなった場面では、一歩一歩、「謙虚、素直、謙虚、素直……」と心で唱えて歩いて乗り越えた。1000往復まであと1回という999回目の夜には、「人生、生涯、小僧のこころ」という言葉が心に浮かんだと書いている。
普段、何げなく使う「ありがとう」は、「ありえ難いこと」が転じたとよく言われる。「普通ではありえないこと」と捉えて、心から発する感謝の言葉かと思うが、命がけで満行を成した著書には、まさに「ありがたい言葉」が詰まっている。

私は例年、年初に言葉に注目して一年の抱負としている。今年の言葉は塩沼住職の「一息、一息を大切に」だった。この思いをどれだけ綴れたか、お伝えできたか……。いずれにしてもこの一年、「田辺志保のひとりがたり」にお付き合いいただき、ありがとうございました。来年も皆様のご指摘を頂戴しながら、乱筆乱文、失言をご容赦願いつつ、恥を承知で思いつくままに書きたいと思っております。




最後になりますが、皆様の益々のご隆盛と、穏やかな越年を、心より祈念申し上げます。

田辺 志保

2014年12月2日火曜日

後悔しても始まらない……

今年もあと僅かである。
みなさまにとって今年、どんな一年でしたか? 楽しい思い出ばかりじゃなかった方も、面白い出来事に遭遇した方もいらっしゃるでしょう。
前回、前々回、夏の我が家の熱闘柔道! 模様に触れたが、年初には悲しい事があった。2月に父を亡くした。そして私には一つ悔いが残った。

最初で最後の本音の話し合い

父は84歳の誕生日に天寿を全うしたと言っていたが、その年の旅だちとなってしまい、家族は残念で仕方ない。父は7年前に母が亡くなった時、自分が先に逝く事しか考えていなかったようで、かなりショックを受けて落ち込んでいた。昭和一桁生まれ。弱音を吐かず、いつも強気な男だが、母の死はかなり応えたようで、暫くは見ているこちらが辛かった。

いつまでも母の携帯電話を手元に置いて、寂しくなると隠れて母の携帯に電話して、録音された留守電の声を聞いていたらしい。父と同居している弟から、その話を聞いた時、オヤジらしくないと驚き、あのオヤジが……と思うと泣けてきたものだ。

昨年の夏に、オヤジから大切な話があると静岡の実家に呼ばれた。3人兄弟を前に「俺は肺がん末期で『余命半年』と宣告された」と話しはじめ、「母さんのところにいけるから嬉しい」と笑って見せた。

それでも昨年末まではかなり元気で、お世話になった方々を訪問して食事をしたり、お礼参りに訪問していた。が、年明けにはだんだん動けなくなっていた。正月明け、話すのも辛くなりはじめたころ、オヤジは我々兄弟に最後のお願い事をしてきた。

「お前たちは、これからの人生がある。死んでからも子どもに負担はかけたくない。だから、葬式も不要だし墓もいらない。母さんは告別式をやったが、それに労力を費やすのは無駄だ。俺の骨は海に撒く「散骨」にしてくれ、それが俺の最後の頼みだ」
全くの予想外、驚いた。オヤジは前々から決めていたようだ。

この時、最初で最後、親子が本音で夜中まで話し合った。オヤジは寝たり起きたりしながら「夜食でも食おうや」とか「昔、お前たち、野球盤ゲームで、そうやって大ゲンカしたなあ」などと笑う場面もあった。

まるでケーススタディの研修のように、困難な課題を与えて我々にさんざん議論させて、結論は子どもたち3人の意思を統一させた。自分で作ったシナリオを楽しみ、面と向かって話す時間を、ぎりぎりのタイミングで演出したかのようだった。
最終的には、オヤジは納得し、後に残る我々子どもの意思を尊重してくれた。一般的な葬送をし、お盆には墓参りも済ますことが出来た。

改めて言いたい!「一期一会」の気持ちの大切さ

以前、「世の中で一番悲しいことは、我が子を看取る事だ」と知人がしみじみ語った。親にすれば、短い生涯ゆえにこの世でやり残した事が多いと思う分だけ不憫に思い、悔しくて、辛くなる。そして誰もが、計り知れない悩みと、後悔までも背負ってしまう。
これは、親の死も同様である。親は人生が長い分やり残した事が少ないと納得できても、子どもの方は親に対しての後悔、もっと頻繁に行き来をすればよかった、旅行もさせてやりたかったなどとの思いが大きくなるので、悲しみの深さは、変わらない気がする。

初めに言った「悔い」とは、死を目前にするまでオヤジの本音を知らなかったことである。普段から、余分なことは言わない人だったが、それでも、私が一歩踏み込んで会話をしていたら、母の死を乗りえて落ち着いたころに、オヤジがふっと漏らした言葉に反応して聞き返していたら……などと悔やまれる。忙しさにかまけてお互いいつでも話せると思っていたのか、いずれにせよ大きな悔いは、面と向かって話す時間を取らなかったことである。

誰もが、両親や友人、人生の先輩たちと別れる時が来るのは世の常で、その都度、後悔をするものだ。「死生観」を語れるほどではないが、残された者が「ひどい」「悲しい」「辛い」という感情と向き合うことは間違いない。だから、残された者はこの痛みを受け止めて、乗り越えなければならないのだ。「仕方がない」と享受する覚悟を持つしかない。「後悔」という後ろ向きの思いは、いつまでも自分を過去の中に置くことである。それゆえ、一刻でも早く「思い出」として転嫁するよう決意すること、そこから未来への自分の糧にすることだと思う。

今は、オヤジの死を簡単に「思い出」に昇華、などと書けるが、あの時の、親子のかけがいのない話し合いの時間が無ければ、今でも過去をさまよって後悔しているかもしれない。
逝ってしまった人の気持ちを勝手に深掘りして、過去に戻ってあれこれと悔やむのは止めようと思う。オヤジは、きっと「いつまでも後ろを向くな、前を向け」と言うはずだ。

私は弟たちと、昔を思い出して「あの時は、オヤジ、おふくろを泣かせたなあ」とか「温泉旅行も約束倒れだったな」などと涙することもある。考えてみたら、オヤジとおふくろに、何もしてあげられずにここまで来たなと実感する。「親孝行 したいときには 親はなし」を痛感した。すべては後の祭りなのだ。

オヤジは最後にこうも言った。
「俺のことで揉めるな。皆が元気で仲良く暮らしてほしいだけだ。それが一番の望みだ」


年の瀬を目の前に、来年の一周忌には、娘の制服姿と息子の柔道着姿で静岡に行くのも有りだな、と勝手に考えた。オヤジにもおふくろにも見せることができなかったから……

田辺 志保

2014年11月21日金曜日

人を見守る事のむずかしさを知る <後編>

友人から「最近、月日が経つのが早い、一年があっという間に過ぎるよな……。ジャネの法則って知ってる?」と言われた。19世紀のフランスの哲学者、ポール・ジャネが発案して、甥のピエール・ジャネが著書で紹介した法則だという。

主観的に記憶される年月、時間の長さは年長者には短く、年少者には長く評価、感じられる現象を心理学的に説いたもので、生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢に反比例するそうだ。過去を振り返った時に感じる時間の長さの印象、ということのようだ。

子どものころは、見るもの、触るもの、口にするもの、耳にすることすべてが初めての経験、出来事。日々、そうした新鮮な出来事に遭遇し、充実しているから一日が、一年が長く感じられるという。それから年を重ねて社会人となって、やること、なすことすべてが初めてという時期もあったが、社会人として一通り経験し、理解しているつもりの年齢になると、新鮮な驚きの出合いは減り、一年があっという間に過ぎてしまう。

ここ数年、私もそこに陥っている!?そんな自分を振り返ると、「あの頃もう少し頑張っていれば」とか入社直後「今ならあの時もっとこうしたのに」などと、後悔だらけだが、時間は平等に流れているはず。一日一日を充実感や満足感、達成感をしっかりと実感できる生活を送っていれば年齢に関係ないとも思う。だから、後悔しないような一日を送りたい。

人生脚本は、自分で描くもの

以前、柔道の練習で疲れ果てた息子が、風呂場の前で倒れていた。びっくりして見に行くとなんと寝ていた!こんな調子で、机に向かい勉強している姿を、最近、見たことが無い。

このままではいけないと思い、一年生最初のテスト前に最初が肝心と「平均80点を目指す」ことを約束させた。これでは、柔道バカが現実となる。親として、息子の人生脚本を修正しようと思い立ち、息子の前に悲惨な答案用紙を並べ「柔道以外の目標は?」と尋ねた。
すると「これから、80を目指す、それから90、次は100だ」と答えた。
私は「ほー、すごいな。今度はやる気満々だな」と胸をなでおろした。
ところが、次の言葉に茫然とした。
「うん、お父さん、握力80になると、リンゴが潰せて、90では10円玉が曲がるらしいよ。そして100を超えると簡単に10円玉は曲り、リンゴも粉々になるんだ!」目が点になった。


こともあろうにまだ続きがあった。
「それに握力が100になれば、相手が僕の組手を切ることは出来なくなるんだ」
家内が一言、「目標は『学力』でなく『握力』なのよね」と。

聞くと、通学のバスの中で、バネ製の握力器を毎日300回握っているらしい。あきれて返す言葉がみつからなかった。気も失せたが、「ふざけるな、文武両道こそ目指す姿」と息子を叱り飛ばした。しかし一方で、「そこまで突き抜けることは大したもんだ」と妙に感心して、たとえ親でも彼の脚本は変えられないとも思った。
冷静に、組織論的に考えると、彼の環境は柔道には最上の組織なのである。

理想の組織は、最大の活性化を実現する

組織論でよく「みこしを担ぐ」話がある。上位3割の社員がみこしを担ぎ、組織を引っ張り、4割の社員は引っ張られるように、みこしを担いだり担がなかったりで、残りの3割はみこしにぶら下がって足を引っ張っている、とされる。俗に「3・4・3の法則」とか「さ・し・みの法則」とか言われる。
勿論、理想の組織は、みこしを担ぐ引っ張り役の情熱集団の割合を増やし、足を引っ張るぶら下がり集団を減らすことであるが、そう簡単ではない。

学校の部活ならば、仲間との楽しい活動が基本なので、止める、止めないは自由である。昔のような鬼のような先輩も減ったし、クラブ活動は学問に支障を来さないといった空気が蔓延しているので、新入部員は夏を過ぎると、簡単にあきらめ、退部希望者が出てくる。結果的に、ぶら下がりは少なくなる。

しかし、会社組織では、採用が大きな投資であり、社員の活性化が会社の業績を左右するから一大事である。人材育成が、会社の人財になる。

社員の側からみれば、大志を抱いて入社したが、どうも上司が気に食わないとか、居心地がよくない、と感じる人が出てくる。ここで自分の殻を破れないまま数年も過ごすうちに、「まあこんなものか」と今の仕事での出来、不向きが分り始める。がそのまま転職の機を逃し、出世レースに身をまかせて走り始めると、勝手に己の行方を案じて、仕方ないとか、取りあえず、何となくといった諦めムードの「みこしぶら下がり予備軍」が出てくる。

理想の組織づくりに欠かせない管理職の役割として、半期ごとに「目標共有化確認」を実行して全体を牽引するモチベーションまで引き上げることが大切だ。特に牽引役の3割の人には、自己啓発の課題も共有して、更なる意欲を引き出すことだ。そのうえで、ベクトルを左右する4割の様子見の人(みこしぶら下がり予備軍)への参画意識をどこまで高められるかだ。



それぞれのラインで、一人ひとりの目的と手段を明確に話し合い、目の前の具体的な目標を達成させる。決めた手段の達成を、一つ一つ積み重ねながら、自信と度量が大きくなる事を見守る。一人の育成が「共育」に繋がり、この集団化でしか目的は成就しないので、ここを端折っては絶対駄目である。
上司は、きめ細かく部下が達成できる目標をまず設定させて、クリアするたびに評価することである。後は、欲が出てくれば自分で学んでいくようになる。このプロセスは決して面倒なことではない。じっくり見守る姿勢が肝心だ。
部下は、都度の課題と対策を学び取り、後輩へと繋げる兄貴、姉御肌を身に着けていく。

「自分の領域の達成」と、「後輩の育成」の両輪を成すことが仕事であり、当事者意識を持って自分で勝ち取った、と思う人の勢力を拡大させる以外に組織の活性化は果たせない。
それは丁度、オセロゲームのように一人づつ仲間を増やすことなのだ。

新鮮に満ちた毎日を目指し、自らを活性化させる

私は「自分の人生は自分で切り拓いてきた」と思う反面、多くの方々のご縁を頂戴してここまで来たことも承知している。ご縁の源は、年齢など関係なく、本気で打ち込み、わき目も振らず、明日の自分を信じて今日を生きている、と思っていただけること。

隠居翁を気取って、経験や知見をひけらかせて、相手を指導とか、相手を矯正させるなどはおごり高ぶりだし、それだけではただの嫌われ者になりかねない。
せめて、信頼を願う自分の家族や友人など大好きな人に接するときは、相手を思い、信じた相手にそっと「寄り添う」ことではないだろうか。温かく寄り添いながら、目を細めて眺めているうちに「自分の生きがい探し」を見つけられる好奇心や心のゆとりが生まれてくるような気がする。

しかし、最後は自分で決断し、自分の力で答えを導き出すしかないのだ。私が息子の柔道を盛んに紹介するのは、ジャネの法則が理由かもしれない。

「新鮮に満ちた毎日」が遠い昔と忘れてしまった私と比べ、今の息子の一日はどうだろう。
今日の努力が、必ず実を結び、優勝することを信じてその日を完全燃焼している。
私は、きっと息子の瞬間、瞬間の姿を羨ましいと思い、疑似体験しているのだろう。世間の親が、頑張っている子どもの活躍に一喜一憂するのは、出来ない自分を相手に託しているからで、何としても頑張らせようと過剰な期待を寄せる。

学生時代を振り返ればわかるように、他人の台本を無理に書き換えようとするのは無駄な努力……。息子のことは思い切って青春物のドラマでも見るように、気を楽にして見守ることにしよう。どうあがいても、所詮、人の人生は、自らが脚本を書き、主演・演出するのだ。

田辺 志保

2014年11月5日水曜日

人を見守る事のむずかしさを知る <前編>

そろそろ今年、2014年を振り返るころが近づいてきた。
我が家のニュースは何だろうか? と考えると、夏から秋にかけての息子の柔道……。今年の夏は例年に比べて涼しい夏だったといわれているが、我が家は熱かった!

息子たちの柔道を見守る

市川市立第七中学校柔道部の息子が千葉県市川・浦安地区を勝ち抜いて千葉県大会に進出した。しかし、千葉県の壁は厚く、73kg級個人戦、中堅を務めた団体戦とも敗退して全国中学柔道大会(全中)出場は叶わなかった。中学になると細かく分けた体重別階級ごとの個人戦となり、七中柔道部から二人が千葉県代表として出場した。

息子は苦杯をなめたが、技は体力も未完成ながら、体重管理を含めた体づくりでは自分を追い込み、練習を重ねて臨んだ。私はそんな息子を励まし、見守った。

「七中名物サーキット」と呼ばれる練習は、まず、全員が輪になって、腕立て、腹筋、屈伸運動を何百回と続ける。一人が10回ずつ号令をかけ回るので、20名で各種200回になる。これが、通常練習の後のメニューというから1年も経つと、体つきがみるみる変わってくる。



体重別競技の選手は、中学でも体重の増減に合わせての体づくりを求められる。カロリーコントロールと併行してインナーマッスルを鍛えて代謝カロリーを増やす肉体に改造することだ。息子は小学校卒業時、70kgの体重が、中学に入って66kgに落ちるのに2か月と掛からなかった。いくら食べても太れないのである。大会に73kg級でエントリーした息子は、下限の66kgを割ると計量で失格になるのだが、一向に体重が増える気配がない。

摂取カロリーと代謝機能がそのままだと練習量でのダイエットにしかならない。息子は「筋トレ」を上回る「食いトレ」に励むしかなかった。そんな「食いトレ」と「インナーマッスル強化」で地区大会から県大会にまで進めたのは、体重計との格闘では勝利したからだ。

息子は部活に加え、市川の「須賀道場」に週4回通っているが、体重減少を心配する息子に、道場の岩崎先生は「大丈夫、体が慣れば食べられるようになり体重は増える。その身体を、また絞って筋肉に変えていくうちに、見違えるから」と涼しい顔。夏を努力した者には「絞り込まれた強靭な肉体と、力強い技の切れ」という大きな収穫が得られるというのだ。

息子の「食いトレ」は、朝から「かつ丼」、給食は人並みで我慢、道場に行く日は軽めの夕食、道場から戻り再夕食(夜食)を取る。満腹は道場で吐くので厳禁だ。家内は「飼育しているよう」と言いながら内心嬉しそうである。県大会当日、息子は71kgで計量を通過した。



多くの人に支えられて……

誰しも、運動に限らず何か事を始める際の動機は、大きく二つあると思う。一つは始める活動・運動そのものの魅力、二つは指導者や仲間の魅力。息子は通う「須賀道場」で両方を満たされている。名だたる柔道好きが集い、全国でも有名な猛者を育て、全国大会出場の強者を数多く輩出している名門道場で、以前紹介した廣田先生、増田先生も須賀道場の門下生。有難いことに、息子は須賀会長と道場の有り様に支えられている。

「須賀道場の魅力」は何と言っても、須賀会長の的確な指導力と門下生一人ひとりに対する姿勢、人を引き付ける人間力。ここで育った先生たちが須賀先生への恩返しとばかりに更にパワーアップした熱血漢と指導力を引き継いで門下生の為に集まってくる。

とにかく須賀道場の門下生はタフである。夏は気を失うほど暑く、冬は身を切るような寒さの中でひたすら練習を繰り返す。柔道の試合ではもつれ込むと、お互い疲れ果てて残り一分間で、気力と余力があるかないかで勝敗が決まる、といわれる。須賀道場の門下生は、試合時間をフル回転で戦い続けるタフな体と根性を身に付けて行くのだ。

この夏、腕に覚えのある方が初めて須賀道場の練習に参加したが、一時間もしないうちに軽い熱中症でうずくまっていた。いつものメンバーは平気な顔。こう話すと、「須賀道場」とはどんな道場だろう……と思われるだろう。が、お世辞にも立派とは言えない。広くて、冷暖房付きの公営の武道センターと比べると、意図的かと思うほど何もない道場であるが、私はこの道場の存在が、「修行のパワースポット」になっていると思っている。



涙が人を育てる

県大会団体戦で敗れた瞬間、選手たちの姿が心に残ったので記しておきたい。
選手たちは引き上げるや否や会場の隅で泣き始めた。無理もない。3年生は個人戦での優勝者以外は引退となるので、寂しさと無念の涙。後輩たちは、先輩が去る寂しさと申し訳なさで、涙が止まらなかった。今までを見てきただけに、その悔しさはよくわかる。

個人戦での勝ち負けは「嬉し涙」も「悔し涙」も自分に向けてだが、団体戦での負けはメンバーへの申し訳なさへの涙に変わる。自分への涙と違い、人の痛みへの涙は「成長の涙」。今子どもたちは得難い涙を流していると、私はほほえましく思ってしまった。補欠で悔しいはずの3年生が、後輩の肩をたたきながら、「気にするな、新人戦と来年の全中は俺たちの分まで頼むぞ」と後輩を励ます姿を見たとき、その気遣いと優しさに感激してしまった。

引退する3年生を見守ってきた顧問の古館(こだて)先生は、引退する3年生に「すまない」と言って泣いていた。最後は全員で、保護者の方々へ「ありがとうございました」と頭を下げた。涙でくしゃくしゃ顔の彼らは、誰も顔を上げられず暫く下を向いたままだった。



その場をただ見守るだけの私は、息子たちを育成くださる先生たちに頭を下げながら、ふっと昔、よく口ずさんだ坂村真民の「七字のうた」を思い出した。



息子たちが、これからも一途な努力を積み重ね、いつか「よいみをむすぶ」ため、負けた時には口出しせずに見守るだけで、勝った時こそ一緒になって喜ぶことにしよう。


田辺 志保

2014年10月15日水曜日

無意識の行動パターンを利用するワザ。<後編>

あなたから「仕入れたい」「買いたい」と思わせる会話術。

カネボウのカリスマ販売員はお客様と親愛の距離・ベストポジションにすっと入り込めると、前回お話しした。とはいえ、初めて顔を合わせ、言葉を交わして商品を買っていただくのは容易なことではない。
「何かお探しですか?」と声をかけて「見ているだけ……」と返されたらそこで終了。また、いきなり商品の説明を始めても同様の言葉とともにお客様はその場を後にするだろう。

私は静岡の営業現場時代から、営業担当者とその傘下にある数多くの美容部員さんを預かる機会を得てきた。営業担当者は、お取引店様の売上げ拡大の提案活動をはじめ、美容部員さんの配置とその連携を深めるための労務管理が大きな仕事だ。また、美容部員さんは化粧品販売の最前線に立つ。お客様へのカウンセリング活動を通して商品を買っていただくよう働きかける。営業担当者には特段のマニュアルなどなく、基本スキル以外の説得話法、営業センス、提案力、人間力などは、個人の資質と先輩からの指導と実践で掴み取り、美容部員は教育部主催の研修会で、身だしなみや立振る舞い、話法の基本を習得していた。
いずれにしても、お取引店様から「この営業担当者から仕入れたい」、お客様から「この美容部員さんから買いたい」と言われるよう、努力の毎日だったと思う。

そうした中、静岡のメンバーは、当時、日本一の静岡営業軍団(私の風貌からか田辺組と呼ばれていたらしい)とのご評価をいただいた。軍団の言葉には、恐れを知らぬ活発な行動部隊との揶揄的な意味があったのかもしれないが、実は裏で地道に「感動体験紹介運動」を実践していた。“感動体験を伝える”勉強会である。


その都度、指名されたメンバーが最近感動したこと、本でも映画でも、身の回りに起こった出来事でも、とにかく自身が感動した話を発表して、その感動が伝わってきたかどうか、参加メンバーが評価し合うのだ。
「紹介された映画の情景が全く浮かんでこない」「その本を買って読もうとは思わない」「どこに感動したのかわからない」などと言いたい放題だが、そこにはルールを設けていた。ただ評価するだけでなく、その理由と、対策の進言をセットにすることを義務づけた。

当初、「この忙しい時にこんな事をしている場合ですか?」と部下から突き上げられた。しかし、「伝わらない話をしていては『こいつじゃダメだ』と見捨てられてしまう」「いつか絶対役に立つ……」と信じて、私は強行した。そのうち、各人に変化があらわれた。課題が見えてきたのである。

私も気づいた。不評な話は、題材もさることながら、まず「間」が悪いのだ。相手の反応をうかがう「間」がとれない。自分の言いたいことに終始して、聞かされる、聞いている側のことなどお構いなしなのだ。

やがて、発表する側は不評の原因に気づき、学習を重ねて、勉強会2年目ぐらいから、飛躍的に進歩した。相手の反応を伺う「間」が取れるようになるのだ。声のトーン、伝える時の表情なども見違えるほどで、まさに訓練の賜物。私は「してやったり!」の思いを味わった。

人は最初から好印象をもってもらえる人もあれば、そうでない人もいる。そして、誰しも得手不得手がある。初対面でも如才なく、相手の気持ちや立場などを敏感に察知して会話を始められる人もいれば、会話のきっかけをなかなかつかめないでいる人も少なくない。
しかし、相手を思う会話、セールストークは不思議なくらい「間」が生まれ、相手の心に響いて、信頼関係を築く。会話には自分の思い、考えを相手に伝え、人を動かす力があり、それは同時にワザともなる。

気持ちよく会話を進めるには、うなづいたり、相槌を打ったり、感想を述べたり、時には質問をするなどして、相手の話をていねいに聞くことだ。

上手に受けて、気持ちよく投げ返す。

朝一番、まずは「おはようございます」で始まり、当然ながら、「おはようございます」の返礼があって気持ちよく1日がスタートする。ところが、相手の顔や目を見ずに声だけ発する「壁に挨拶」や、下を向いたまま挨拶をする人がいる。以前、お取引先様から、カバンから書類を取り出しながら挨拶を返されて不愉快だった、と苦言を呈されたことがある。


「目は口ほどにものをいう」とよく言うが、話すときは相手の目を見ることだ。相手への関心を伝えるには、視線を外すことなかれ、である。視線の先は相手の目の上部を見るくらいが良い。この時大事なのは顎の角度。顎を引きぎみにして眉辺りを見るようにすると自信にあふれた姿勢になるそうだ。相手の胸元を見る方がいるが、お詫びの時は別として、目線を下げると迷いがあるように映るらしい。商談の場合は自信のない態度は禁物である。

挨拶も目線も、上手に受けて、気持ちよく投げ返し、そこから相手のいい笑顔を引き出すことができればその後のコミュニケーションもスムーズに運ぶだろう。
その先、最高のご褒美、先方からの「ありがとう」の笑顔が待っている。

田辺 志保

2014年9月24日水曜日

無意識の行動パターンを利用する。<前編>

店舗戦略「左回り」。

私は営業現場にいた頃、新規店舗の化粧品コーナーの設置をめぐって他社と常にしのぎを削っていた。いわゆる陣取り(場所取り)合戦である。特に大型店舗ではお客様の注意が無意識に向く、いわゆる一等地を押さえることだった。
で、その一等地とはどこか……。
大型店舗では入り口から入って左前の売り場である。勿論、業態や店舗ごとに異なるが一般的な大型GMSなどでは、まずそこに食品売り場を押さえようとする。そこからのお客様導線をみての、化粧品コーナーの位置要望と、コーナー決定後でも場所取り優位は、やはりこの場所である。

小売業では「左回り(反時計回り)」を取り入れた店舗戦略が知られる。駅を出て駅舎を背に立つと、人はおうおうにして「左」の方面に目をやったり、動いたりする傾向があり、入口が左右2か所ある建物に入る時は左の入り口から入る人が多いなどといわれていたことから、左側入口付近の左側を押さえることに私は力を注いだ。
この左回りはキャンペーンや売れ筋商品の陳列にも当てはまる。大型店舗では周囲の売り場によるお客様の導線を予測しながら、店舗内を壁に沿って左回りで回遊を計算したのだ。

余談だが、美術館や水族館などは左壁回りが多く、遊園地でも幼児用のメリーゴーランドは左回り、意表をつく絶叫系アトラクションは右回りが多いということを聞いたことがある。


以前、元警察関係の方から面白い話を伺った。
容疑者取り調べの際、一般的な傾向として、身に覚えのある人ほどよくしゃべる、というのだ。少しでもやましい気持ちがあると、目が泳いでそわそわして、懸命に言い訳を並べ、そのうちに、しゃべりすぎて自分からぼろを出すそうである。
逆に寡黙だったり、ダンマリを決め込んだりしている場合は、色々なゆさぶりをかけて、じっとその反応を見るそうだ。人が、嘘をつく時の無意識の行動パターンというのがあるという。

私が駆使してきた店舗戦略「左回り」もまさに無意識の行動パターンである。
前にも触れたが無意識の行動パターンには、非言語的な無意識化の行動(ノンバーバルコミュニケーション)と、言語的な意識下の行動(バーバルコミュニケーション)があり、相手との会話では、言葉(言語)の与える影響はわずか7%ほどでしかなく、顔の表情やしぐさ、声のトーン、視線、身振りなどの非言語的行動が残りを占めるという。

そもそも人の心臓は、基本左胸にある。急所である心臓の破壊は、死に直結するので、人は無意識に心臓(急所)を守る行動をとるようになっている。したがって、人は心臓を内側に内側にと置くことで安心する。

通路では外敵のいない壁を左側にして歩く。実は、逃走する犯人の約8割はT路地では左折して逃走する。警察はそれを参考に逃走方向の左手に人員配置・シフトすることがあるという。相手が腕組みをするのも、こちらを警戒して無意識に心臓を守り、その相手を拒否する行動だ。商談中、相手が腕組みをしたら、つらい展開になることを覚悟したほうがいい。

警戒があれば、親愛もある。

カネボウでカリスマ販売員と称された人たちは、お客様の心臓側に位置する「親愛の距離」、ベストポジションにすっと入り込むことができる。

売り場に足を踏み入れたとたん、「何かお探しですか?」と販売員が近づいてきたので逃げるようにその場を離れたとか、購買意欲が一気に失せた……、そんな経験はありませんか?

自分の左右の腕を横一杯に広げてみよう。左右の指先までの距離は大体自分の身長に比例し、この両腕を広げた距離を自己のテリトリーと認識する。だからこの範囲に見知らぬ人が侵入してくると人は警戒する。
初めて足を踏み入れた店で、販売員が自分に近づいてきてこの範囲に入ると、「何か言ってくるな、声をかけられる」と構えるのだ。「何かお探しですか」などとつきまとわれると、ウインドウショッピングの楽しさが半減する方もいるだろう。

優秀な販売員はお客様との距離を絶えずこの警戒範囲の外で様子をうかがう。これは販売の鉄則だ。つかず離れず、絶えずお客様が「ちょっと」という感じで顔を上げる機会を待ちかまえている。そしてタイミングを逃さず、「はい」と言いながらスッと近づくのである。

さらに、両腕を下げ、ひじを起点に前へ持ち上げた状態の、体から指先までの範囲が相手を許す親愛の距離といわれる。40センチくらいだろうか。
その距離内に入り、それも相手の心臓側に位置したら「親愛のベストポジション」である。
この域に達するのは相当の信頼関係が築かれた証拠で、最良のコミュニケーション、会話ができる。そう簡単にそこに入り込めず、かなりの努力を要することだが、カリスマ販売員はなんなくクリアしているから尊敬に値する。


これは販売員のノンバーバル・無意識行動を考慮した最高のバーバルコミュニケーション行動の最初の一歩。ほかに、顔の表情やしぐさ、声のトーン、視線、身振りなど深く掘り下げなければならないことがたくさんある。
販売職に限らず、営業、製造ラインで仕事をする人にも、無意識の行動パターンの活用場面は数多くあり、自身の土台づくりとなることは間違いない。
勘違いしてはいけない。無意識の行動パターンを知る・理解することが大事ではない。それを、社会、仕事の場で通用する能力に育て上げなければ意味がないのだ。

自分の無意識行動を見直す。

「善濡直心」。「ぜんじゅじきしん」と読む。
善の心、濡れた心、素直な心を持とうという教えであるが、私はこう解釈している。
相手の心が殺伐として乾いている、と嘆くのではなく、それは自分の心が濡れていないからだと思え。自分が素直に濡れた心で接することでしか、相手の心は濡れてはこない。

そう思って自分の行動を見直すと、反省だらけだ。相手の話を聞くときに、腕を組む、時々目を逸らす、眉間にしわを寄せる、足を組む、笑顔を忘れる、話の腰を折る、数え上げたら切りがない。
人様を論ずる前に、人様が嫌がる己の無意識での行動を見直し、改めてみたい。
意識的行動が「善儒直心」を目的とすること、を肝に命じて取り組もう、と心に誓った。


田辺 志保

2014年9月3日水曜日

「言い訳」について考える。

最近、未だ本気を模索中の娘と、柔道以外に本気が存在しない息子に怒り心頭。テスト前にもかかわらず、大イビキの就寝姿を目にしてイラっとしたり、何かと気持ちがざらついたりして、叱りまくっている……。あまりにテストの成績が悪いのだ。子どもは「ちゃんと勉強したけど、たまたま習っていない問題が出た」「部活が忙しくて」などと必死で「言い訳」をする。もちろん私は「勉強不足!」ととりあわないし、「前期も同じ言い訳だったな」と、全く変わろうとしない気持ちを指摘して、テスト以外のこともあげつらい、執拗に叱ることになる。
「やればできる子だから、今回はしょうがない」と大目にみる親も多いようだが、私はそれで終わらせてはいけないと思っている。


何かを成そうとしてそれを実現出来なかったり、叶わなかったりしたとき、多くの人は、その失敗や過失などについて、そうならざるを得なかった、いわゆる「言い訳」をする。
本人は「言い訳」というより、失敗した理由や事情を説明して了解をとるつもりなのだが、相手にはそう映らない。そこに、自らを正当化しようとしたり、時には相手に責任を転嫁したりすることが多いからだ。

「言い訳」は勉強に限らず、仕事の場でも、聞くに堪えず、見苦しい。
「ごめんなさい、遊んでばかりいた」「申し訳ありません。私の力不足です」と、正面から言われると、こちらとしても、「どこが?」とか「何故?」と事の次第を確かめてみようか、もう少し話を聞いてみようか……などと気持ちが動く。そのうち、こちらがその理由を慮って、叱ることを忘れてしまうこともあるのだ。今回、この「言い訳」について少し考えてみたい。

「言い訳」ではなく、「説明」に徹せよ

一般的に「言い訳」には、無意識に自分が一番かわいくて己を守ろうとするからだろうか、責任転嫁が多い。私の経験上、原因に目を向けずに自分の正当性を述べるとき、自分の対処法ややり方がまずかった、多少の後ろめたさがある場合は声のトーンが落ちるものだ。さらに、目を逸らしたり下を向いたり、まして鼻や口に手を添えたら、口先とは裏腹な証拠だ。

仕事でいえば、総じて「言い訳」の多い人ほど、自慢が多く、うまくいったときは自己アピールタイムとなる。首尾よく終われば自分のおかげで、失敗したら人のせいとなる。これは最も嫌われる。
逆に、上首尾は人様のおかげ、お力、失敗は自分の至らなさ、力不足などと口にされると、「なかなかやるな~」と好人物を印象づけ、株が上がる。私は、相手が失敗に肩を落としていれば、「そう気を落とすな」「自分を責めるな」といったやさしい言葉(!?)をかけて、時には策を一緒に考えようと思ってしまう。

だから「解決できない理由をあれこれ並べるより、一つでも二つでも自分で出来る対策を考えろ」と言いたい!

一方、言い訳の「上手な聞き方」というのもあるように思う。
以前、積極的傾聴でも紹介したが、たとえば報告を聞く際には、最初に結論から報告してもらうように促すことも一法だ。「うまくいきました」の次には必ず成功理由が続くので、どこでどう褒めるかを考えながら聞くことができる。逆に「失敗です」の後には「言い訳」が続くので、その中から、原因と対策を探るために耳を傾ける。

いきなり言い訳が始まったら、「言い訳するな、みっともない」と決めつけるのは考えものだ。相手とのコミュニケーションを深める絶好の機会だと思うことが大切。本音を探り、共有することだ。これは気づきのチャンスなのだから、部下育成に利用しない手はない。
そんなときには、眉間にしわを寄せたりせず、「ずいぶん頑張ったが、ここが甘かったな」などと、相手のプライドを傷つけず指摘して納得させることだ。間違っても相手を叱りつけないこと。自信を喪失させるだけで、問題解決にブレーキをかけてしまう。ここは自らに原因があることをきちんと理解してもらい、それを自ら直す、という気持ちへと導くのが得策だ。

また、「言い訳」ととられない上手な言い方があるようにも思う。責任転嫁ではなく、その場を、客観的に状況を説明する機会と捉え、事実を正確に表現することが大切だ。自分に非はなく、他人の非を暴くようでは話にならない。自責のフレームで説明してみることだ。他責には何も生まれないことを肝に命じたい。

立場は常に交互にやってくる、実はどちらも自分の事である。
やはり「世の中で変えられないことは、他人の心と己の過去。変えられるのは己の心と自分の未来」なのだ。


「叱り方」にもコツがある

以前、「叱り方の極意」を伝授されたことがある。
ポイントは3つ。「その場」で、「その事だけ」を、「短く」という。

大切な会議に遅刻した社員がいた。すぐに「なぜ遅れたのか」とその理由を尋ねるのは最悪らしい。なぜなら「実は子どもが交通事故にあって」といわれたら「それは大変だったな」となって、叱るどころではなくなる。
そんな時は、最初に「遅い!」と一言、これだけで十分。遅れた事実に対して、その場で、その事だけを、短く、である。後でじっくりと説明(言い訳)を聞く時間を設けることだ。

私は時々、この極意を忘れてしまうことがある。
冒頭に述べた、子どもを叱る姿が最たる例だ。

ここで絶対にしてはいけない最悪の叱り方を伝授しよう。
「その場以外」に、「その事だけでなく」、「だらだら」とである。
これは、相手をつぶしてしまうので、封印する覚悟を持とう。

いずれにしても、自分に非がある場合は、説明でも言い訳でもない。「すみません」「申し訳ありません」の一言。「過って改むるに憚ること勿れ」である。

田辺 志保

2014年8月14日木曜日

「持論を常に熱く語る」。これが田辺流!<後編>

人を幸せにできれば自分も幸せになれる。

マルコ様の研修で次にお話ししたのが、人間関係、人づきあいをスムーズにする「4つの幸せ」の実践である。私が花王カスタマーマーケティング株式会社に出向した際に、全く新しい切り口で提案して一緒に取り組んだ「やる気、元気活性化運動」をお話しした。

人が「幸せ」を感じる4つとは、人に「愛される」「褒められる」「必要とされる」「役に立つ」、この4つが欠かせない心理という。
その為には、愛と感謝をもって接することである。この気持ちをもって人様を眺めると、褒めることが見つかるはずで、それを言葉として発した時に相手は「私は認められた」と感じることになる。称賛された存在価値は、必要とされている、役に立っている、にも繋がるはずで、誰でも心地よいことこの上なし。元気も倍増する。

私は、これを組織内で仕組み化しようと考え、花王の仲間たちが後押しをしてくれた。



6年前、花王CMK中四国リージョンへの出向が決まった。その時は、カネボウから離れ、それこそ、たった一人で、アメリカ軍に乗り込む日本の将校のごとく水杯で別れた。

ところが「案ずるより産むがやすし」で花王CMK中四国リージョンには、気持ちの良い素晴らしい仲間が待ち受けていた。ただ、花王という異なる組織で、扱う商品も違うだけに、カネボウ時代の経験やノウハウは通用しない。

こちらは新入生、皆様のご苦労や活躍を只々見守り、都度感心、感激していただけの気がする。持参した資料や書物を開示して「幹部人間力アップ勉強会」「若手社員のマネジメント講座」「お取引先様の研修会」など、直接のビジネスとは、関係のない感動発信の活動をやらせていただいたくらいである。

その感動発信の一つ、毎月の幹部勉強会の出来事を紹介しよう。
幹部勉強会を立ち上げ、各GL(部長)に、持ち回りで1時間授業を担当していただいた。マーケティングの幹部は積み上げたマーケ知識を披露し、エジプト文明を一時間語った幹部もいた。とにかく、毎月楽しみの時間であった。

勉強会の初回に、私は「4つの幸せ」活動の話をした。するとある幹部からこれを中四国全体で実践できる仕組みを作りたいという提案が出た。素晴らしい活動をしてくれた仲間を、毎月のテレビ会議で紹介して称賛する「褒め称え運動」として、展開することになった。正直、花王新参者の私には、社内の皆さんが気持ちよく仕事ができればと考えるのが精一杯だったのだが、それが認めてもらえたのである。まさに「幸せ」であった。

達成者表彰から始まり、そのうち業績だけを褒めるのではなく、何故業績が上がったのか、具体的に掘り下げて、その中身を称賛し、水平展開の輪を作ろう、あるいは、仕事以外の個人的な活動なども取り上げ、もっと幅広く素晴らしい人を見つける運動にした方が面白い……などの意見が上がり、どんどん進化していった。

その好例が、地域のサッカーチームに所属して練習に励み、広島代表として見事全国大会に出場した社員だ。これはすごい! となり、彼の活躍を紹介し、皆で拍手、称賛した。褒められ、認められたと感じた彼は、それを力にいっそう仕事に励み、仲間とともに一生懸命に取り組み始め、今では中四国№1の仕事ぶりである。

この運動は幹部たちにも影響を及ぼした。部下の動向を見守り、いいとこ探しをしているうちに、部下との交流が深まり、部内が活き活きとしてきたのである。人を幸せにできれば自分が幸せになれる。幸せになるためには人を幸せにするのが近道と言えそうだ。

広島の花王時代には、エコナの回収問題でもがき、洗剤の革命アタックネオ、ヘルシアスパークリングの大ヒットも経験させていただいた。一言で言えば「本当に楽しかった」。



そうした広島時代の思い出をご紹介しつつ、マルコ様の研修を締めくくった。

マルコ様のスタイリストとお客様との繋がりは、本当に深い。ファンデーション(下着)を通したお客様のボディラインづくりだけでなく、共に食事、運動をし、時には心のケアまでも含めた総合的コーチングマネージャーのような存在のスタイリストが多い。
年に一度、お客様がご自分の心と体型の美の実践を披露する「MMPC(マルコ・メイキング・プロポーション・コンテスト)」というイベントがある。お客様が日頃の自分磨きを競い合う発表会で、各地区の代表のお客様はキラキラ輝き、我がこととして共に励んできた各地区のスタイリストの応援にも力が入る。私は審査員の一人として出席させていただくのだが、その熱意と全員の一生懸命さに圧倒されてしまう。



まさに、マルコ様の一体感は、お客様とマルコ社員相互の4つの幸せの共有から出来上がっている。今回研修に参加された感性豊かなスタイリストの方々からは、今後もさらにお客様の姿を深く見つめることで、もう一度既存の概念を見直し、皆で認め合い、励まし合って、お客様の「4つの幸せ」を肝に銘じて活動すると、仰っていただいた。

一方で私は、マルコ様の研修を通して、私自身がまだまだ既存の概念に捉われていると反省した。常に自分自身が出来ているのだろうか? と問いかける機会を与えてもらった。



実は先日、柔道の試合で負けた息子にダメ出しをして、反省会を押し付けたのである。あの時何故、気の遠くなるほど練習をしている息子を、そのプロセスを「褒めて認める」ことをしなかったのだろう。いきなり負けを咎めることは、プロセス自体も否定してしまう。

マルコ様研修の翌朝、鏡に写る未熟な自分につぶやいた。
「さあ、今日は誰をどれだけ褒めようか~、それも満面の笑みでだぞっ。笑おう」
日々の幸せを与える実践の中で、それが自分の幸せ、と感じるようにならなければ!


田辺 志保

2014年8月7日木曜日

「持論を常に熱く語る」。これが田辺流! <前編>

先日、当社の大切なお取引先様、大阪に本社をおく「マルコ株式会社」(以下、マルコ様)の方々が、研修を兼ねて小田原のカネボウ化粧品の主力工場にみえた。
マルコ様は、1978年、日本で初めてプロポーションを整えるための「体型補整下着」を完成させた、その道のリーディングカンパニーである。
以来、世の女性に夢と自信を与えることを使命とし、一貫して最高のモノづくりにこだわり、美しいボディラインと健康づくりを提案・提供する総合コンサルテーション企業として、お客様から高い評価を得ている。
全国各地のマルコショップのボディスタイリスト・コンシェルジュ(以下、スタイリスト)は、理想のプロポーションづくりに励むお客様からの絶大な信頼のもと、ゆるぎない顧客関係を築いているのだ。

そうしたマルコ様と当社が1997年に「アクセージュ」というボディケア化粧品を共同開発した。「アクセージュ」は当社の優れた処方技術および、植物エキスをはじめとする様々な成分と、マルコ様のコンセプトとお客様像を融合させてアクセージュボディシリーズとして発売した。2008年にはバストの肌に潤いとハリ、艶を与える「バストライブセラム(潤い・ハリ・艶効果)」と、肌を柔軟にしてハリを与える商品「ボディマッサージジェル(潤い・ハリ・柔軟効果)」が登場し、現在多くのスタイリストが自信をもってお客様におすすめし、お客様には、感触、効果、香りなどを感じていただき、ファンデーション(下着)と共に大変ご好評いただいている息の長い優れものである。



研修には全国から優秀なスタイリスト30名と幹部の方々が参加され、我々は緊張しつつお迎えした。研究・開発・製造のラインなどを見学していただき、その後、お客様との繋がり強化と接客力向上の秘訣などの話も聞きたい、というご依頼を受け、不肖、私の講演も企画させていただいた。
そこで、私は「出会いは人生の宝」と題して、“自己を高める大切さ”と“人との接し方を円滑にすすめるコツ”などをお話しした。

何の会社だろうが、業態、業種を問わず、業績向上に不可欠なことに「従業員のモチベーションアップ」「組織の活性化」があり、モチベーションアップ、良好な人間関係を如何に築くか、組織の活性化のためのマネジメント力をどう駆使するか、が大きな課題だと思う。


既成概念をぶっ壊して「感動」の数を増やそう。

言うまでもなく、我々は人と人との関係で成り立っていて、一人で生きていけないので、その課題の解決には、まず自分の「眼力を高める」ことだ。まずは相手を見る目を養うことが重要で、さらに自らを相手の本質に迫ることが出来るよう進化させることである。
眼力向上には「感性を磨く」こと。自分と関わり合いをもつ人に関心を寄せることから始める。以前ブログで紹介した「ザイアンスの法則」にあるように、今まで以上に相手の言動に関心をもつことで思わぬことが分かり、相手への好感度もアップするのだ。

我々は、どうしても印象という表面的な既存概念にとらわれ、それが邪魔して相手の本質を見失うことがある。「あの人、じっくり話してみると案外いいとこあるね」と、思った経験はないだろうか。あるとすれば、それは自身が見かけの印象にとらわれ、勝手に決めつけていた証拠である。しかも、それらは自身が体験し、知識として習得してきた狭い範囲内での尺度に過ぎず、世の中には、自身が知らないことが山ほどあることを忘れてはならない。

常に、感性を磨いていると、気付きの範囲も質が変わって、それまでの判断基準が変わるはずだ。今までより感心することが増え、感心する数が増えれば増えるほど感激する場面も2倍、3倍になる。その感激の深さの先には、人様にその感激を伝えたり、自ら行動に移したり、まさに「感動の領域」が拡大する。

今回、その既存概念を変化させる、感動領域の拡大のケーススタディとして、野口雨情作詞の童謡「シャボン玉」(野口雨情作詞 中山晋平作曲 1922年)を取り上げた。
まず、マルコの皆様と「シャボン玉」を歌った。

皆さんも会場にいるつもりで歌い、読みすすんでほしい。

シャボン玉とんだ 屋根までとんだ
屋根までとんで こわれて消えた

シャボン玉消えた 飛ばずに消えた
生まれてすぐに こわれて消えた

風、風、吹くな シャボン玉とばそ

歌い終えたところで、この歌の背景をお話しした。
「シャボン玉」は、大正111922)年に雑誌『金の舟』に発表された童謡である。日本を代表する詩人、童謡、民謡作詞家である野口雨情には、「十五夜お月さん」「七つの子」「赤い靴」「あの町この町」など、思い出深い作品がいくつもあるでしょう、と。
そして、「シャボン玉」の作詞に関しては、1908年、妻ひろとの間に長女みどりをもうけたが、生まれて7日後に亡くなった。子煩悩な雨情はそのことをたいそう悔やんでいたという。当時は乳幼児が死ぬことは珍しい事ではなかった。しかもその後、雨情は何人かの子どもに恵まれているが、子どもを失う悲しさは尋常でなく、シャボン玉の歌の本質は「鎮魂」の思いだと言われている。
さらに、ある日、故郷の茨城県磯原村(当時)で少女たちがシャボン玉を飛ばして遊んでいるのを見た雨情が、「娘が生きていたら今頃はこの子たちと遊んでいただろう」と思いながらこの「シャボン玉」を書いたと言われている。

こうした歌の背景をお伝えして、もう一度「シャボン玉」を口ずさんでもらった。
皆様、涙なしでは歌えなくなってしまった。
今までの「シャボン玉」の印象と異なったようだ。相手を知り、深く観察し理解することで、見方が変わることを多少なりとも実感していただけたように思った。背景を知っている私も喉が詰まってしまう。

ちなみに雨情は7歳の時に母親を亡くしており、童謡「七つの子」で子どもを思い泣いているカラスは、7歳の雨情を残して亡くなった母の心であるとも言われている。
カラス なぜなくの カラスは山に 可愛い七つの 子があるからよ
可愛い 可愛いと カラスはなくの 可愛い 可愛いと なくんだよ  

多くの解釈・諸説があるが、私はこうしたことを知ると雨情の歌に人生のはかなさや命の尊さを深く感じてしまう。



大切なことは、一方的な見方や他者の受け売りだけで判断するのではなく、絶えず多面的に知ろうとする好奇心と、俯瞰して捉える鋭い感性をもつことである。「それって本当?」「ちょっと違うんじゃないの」といった小さな疑問、好奇心を抱いたり、視点を変えて見たり、真相、本質に近づこうとする心もちが、既成概念を崩すことや、新たな発見につながり、全く違ったより大きなものを包み込むものへと変化する第一歩かと思う。

田辺志保

2014年7月8日火曜日

「本気」になって、自分の花を咲かせよう

つい先日、大学の付属高校に通う娘から、将来についての相談があった。2年生で希望学部を踏まえたクラス編成がされ、彼女は理科系クラスにいるのだが、未だ将来像が描けないという。私は「おまえの好きなこと、本気で取り組めることは何か」と尋ねたが、答えが返ってこなかった。

ふと、何気なく「本気で取り組めることは何か」と娘に聞いたが、自分の高校・大学時代はどうだったろうかと思い、随分偉そうに聞いてしまったなあ、と少々心が痛んだ。
なぜなら、私は、高校時代には、テレビドラマの事件記者の正義感に憧れて、新聞記者になりたいと思っていた。大学時代には広告業界に入りたいと思うようになった。動機は確か、テレビコマーシャルの制作というと「カッコイイ」から……。一応、新聞論、マスコミ論、広告論などの授業がある社会学部に籍を置いたので、畑違いではなかった。しかし、「本気」なんてなかった。

今どきの若い人はコミックの影響で「本気」を「マジ」と読むらしい。「マジ」とは、学生などの間で「真面目」の口頭語の省略表現、と辞書にある。また、「本気」は、まじめな心。冗談や遊びでない真剣な気持ち。また、そのような気持ちで取り組むさま〔広辞苑〕。
「マジ、うざい」などと話す若者をみると、「本気」の意味をはき違えているように思う。私の中での「本気」は、「取り組む」とセットであり本腰を入れて進めることである。



カネボウ化粧品で見つけた「本気」。

私はいつ、「本気」になっただろうか。
恥ずかしい話だが、それがわかるまで長い年月がかかった。学生時代には生憎見つからなかった。
私は昔から、自分の事を「器用貧乏そのもの」と分析している。というのも、漫画・イラスト、バンド、暴走族、学生運動、吉祥寺の主など、何でもかじるが、どれも中途半端。結局何をしたいかが分からなくて、本気になれない自分に腹が立っていた気がする。

大学4年になっても、ノンポリ学生として、取りあえず就職課に顔を出して、企業の求人案内を眺めていた。当時、70年代後半は、第2次オイルショックで就職氷河期真っ只中。
企業の採用は少数精鋭。「何とかなるさ」は通用しないと思う反面、負けず嫌いの自分の性格上、業界トップなどで「安定」を求める気はさらさらなく、絶えずトップ企業を追いかける挑戦的な業界2位を狙った方が性に合っているし、完全燃焼できると思った。
まあ、本当のところは、さほど成績も良くなく、学校にも行かず好きなことばかりやってきたので業界大手企業が求める成績優秀・スポーツ万能などの基準をクリアするのは、最初から無理な話。活きのよさと、枠にハマらない自由人的なところを気に入って、採用してくれる会社が、きっとどこかにあるはず、という気持ちで企業を回り始めた。

業界2位からトップを目指そうという、流通業、広告業、ホテル業などの会社を訪問しまくった。どこも活気があった。
そんな中、私を採用してくれたのが、化粧品業界のトップの座を狙うカネボウ化粧品事業である。私のどこが、学閥がはびこる古い老舗企業の鐘紡のお眼鏡にかなったかは定かでないが、運よく就職できた。

思えばカネボウ化粧品で「本気」を見つけた気がする。「打倒、社」をスローガンに、全社員一丸となっていた。
それはまさしく火の玉集団。営業、商品、販売、宣伝など、それぞれの部門に「A社に絶対に負けない精神」が染みついたサムライがたくさんいた。そうした先輩の下で働くわけで、大きな声で言えないが、当時、営業部隊は夜討ち、朝駆け当たり前の世界。「ドロボウ、カネボウ、ショウボウ」と言われたころである。

トップメーカーは、業界をリードする立場もあり、絶えず新たな仕組みや提案をし続けなければばらないが、我々は後付けで優位差別化を工夫し追随し、局所で勝てばよしとしていた。
ビジネスで1位になる戦略に「ランチェスターの法則」というのがある。他社と違う事をやる「差別化」、それを徹底する「一点集中」、その地域、顧客、商品、サービスで1位になる「No.1」。これこそが弱者が強者に勝つ原理原則である。

私は当時、この方法で自分の担当地区内でA社を凌駕して、No.1になろうと心に決め、「本気」で取り組んだ。社員にもそれぞれの得意分野でNo.1を目指すことを求めた。
たとえば、「おもてなし接客での挨拶はだれにも負けない」「担当エリアで頭髪商品群売上げトップになる」など、各自がNo.1を目指して取り組む、「No.1運動」の展開である。各自が掲げて成し遂げたNo.1が、オンリー1にもなった。この事例の積み重ねが打倒の突破口、大きな力になっていった。この「No.1運動」はしばらく語り草になった。
何でもそうだが、「不得手の克服」より「得手に磨きをかける」方が分かりやすく、楽しい。


器用貧乏を自認する私でも、特化できることを見つけ、本気で取り組んでいるうちに、ありがたいことに周囲がついてきてくれた。すると取り組んでいる本人が変わってくる。周りが私を輝かせてくれたのだ。商談、新店開拓、教育、企画など、すべてしかり。

私の上司で、大阪駅前の主要取引店のほとんどを一人で開拓した実績を持つ「新店開拓の達人」といわれる人がいた。今、流行りのレジェンド、伝説の人だ。
そこに到達するまで、道を極める為にそれこそ「本気で取り組んだ」と思う。その「本気度」たるや、並大抵のものではなかっただろう。すべてが自分の血となり肉へとなり、彼の話は、新規取引に関する想定問答集をひもとくようで、バイブルの域にまで達していた。



私の会社にも、経理、企画、商品、営業など各部門で「本気」で頑張っている人がたくさんいる。彼ら・彼女らのプライベートを覗けば、プロレーサー顔負けの運転技術でドライブを楽しんだり、プロゴルファー並みの腕前だったり、剣道七段のつわものもいる。育児、料理などをラクラクこなす女性も多く、まぶしいくらいに輝いていている。
会社人生だけでなく、どこの世界でもその道で秀でた人に出会うとうれしくなり、自分もあやかりたいと思う。

「本気」で取り組めば、花はきっと咲く。

娘は本気で取り組むものが見えずに、今、もがいている。でも焦る必要は全くない。迷い、寄り道をして、試さなければ本気で取り組むものは見つからない。
息子は縁あって「柔道」と巡り合い、今、まさに「本気」で取り組んでいるが、怪我の多いスポーツである。しかし、先々の心配をするより、「今」を大事にすることの大切さも伝えたい。挫折したら、起き上がって、何度でも修正すればよい。

私は高2の娘に、不用意に「本気で取り組みたいことは何か」と聞いたが、私が「本気の取り組み」を見つけたのは、20代後半である。
大切なことは、「本気で取り組み、やり抜く」こと。その強さを持つことである。
「本気」で取り組めば、花はきっと咲く。今は無我夢中で取り組むだけである。

「念ずれば花ひらく」で知られる詩人・坂村真民の詩に「本気」がある。

「本気になると/世界が変わってくる/自分が変わってくる/変わってこなかったら/
まだ本気になってない証拠だ/本気な恋/本気な仕事/
ああ/人間一度/こいつを/つかまんことには」

そして、こんな詩も残している。
「花は一瞬にして咲くのではない/大地から芽から出て葉をつくり/葉を繁らせ/成長して/
つぼみをつくり花を咲かせ/実をつくっていく/花は一瞬にして咲くのではない/
花は一筋に咲くのだ」

私がカネボウで見つけた「本気」。この本気をさらに育み、完成度を高めて、一筋に花を咲かせたい。


田辺 志保


2014年6月16日月曜日

筆の世界に生きる竹森鉄舟氏との出会い<後編>

素材にこだわり、工夫を重ね、手技を尽くした化粧筆。

熊野の筆づくりは世界で一目置かれる職人技。



先日、7年ぶりに広島・熊野の竹森鉄舟会長を訪ねた。今一度、最高級のフェイスブラシをお願いするためだ。鉄舟会長が追及し続ける化粧筆づくりを、原毛の選別、原毛の油抜き、筆の穂(軸先から先の部分)の腰、腹、のど、命毛(毛先)の設計など、一連の工程を見せていただいた。私は、自分が売るべき商品が作られる過程を体感し、改めて、確かな技術に裏打ちされた化粧筆の奥深さを知った。そして、鉄舟会長が紛れもない熊野筆の第一人者、最高峰として存在していることを再認識した。



もともと漢字が生まれたのは中国だから毛筆も中国で発展したものと思うが、毛筆づくりは熊野を筆頭に、日本が有名である。漢字とひらがなの独特の文字を書き上げる「仮名筆」をはじめ、日本独自の細い筆なども生まれた。戦後、日本は欧米を中心に「絵筆」の生産国として栄えたが、毛先に拘る技術を誇りながらも、国際的な価格競争についていけなくなった。安価な量産化の波にのまれた。しかし、あなどってはいけないのが高度な職人技。筆の先端の命毛に拘る職人技は世界からも一目置かれる存在なのだ。

2007年、東京で行われた展示会「ビューティーワールド ジャパン」に、竹寶堂が初めて出展した。そこで竹寶堂を知ったNHKが、NHKワールドTVの「JAPAN BIZ CAST」で「日本の技」シリーズとして竹寶堂を紹介。全編英語で世界に放送された。さらに、その番組が評判を呼び、2010年には同じNHKワールドTVの「OUT&ABOUT」で、竹寶堂と熊野筆だけの特集番組が放映された。熊野の筆づくりの職人技や、竹寶堂の化粧筆の素晴らしさが存分に伝わる素晴らしい作品だった。まさに、熊野の筆と鉄舟会長が、世界に認められている証しと、我がことのように嬉しかった。

毛筆は、書道はもちろん、水墨画、浮世絵、日本画などの分野での需要の高まりとともに、細分化されていった。細かいものを描く「面相筆」などが生まれ、「化粧筆」へも優秀な筆づくりの職人が育っていった。鉄舟会長はそうした熊野筆の伝統筆司を認定するお立場にある。

苦労人が作り上げる極上の化粧筆。

鉄舟会長は、熊野で生まれ、育ち、熊野から離れたことがない。では、いかにして「鉄舟」の名が世界に紹介されるほどになったのか……。

竹寶堂・鉄舟は筆司としては当代が2代目。昭和27年、父・一男が熊野町で伝統工芸「面相筆」の穂首づくりを家内工業で始めた。面相筆とは人形の顔を描くために作りられた細かい部分や流線を描く筆である。その面相筆の下請け業を営む父のもと、見習いとして家業を手伝い始めた昭和30年代、化粧品メーカーがこぞってブラッシング化粧法を導入し始めた。鉄舟会長は面相筆の作り方から化粧筆づくりを試み、その基盤を作った。フェイスブラシ、チークブラシ、アイシャドウブラシ、紅筆などあらゆる化粧シーンに登場する化粧ブラシの技術を完成させたのだ。

鉄舟会長に時代を読んだ経営者という括りは当てはまらない。「絵筆」の量産化から見放され、父の面相筆の穂先づくりから化粧筆への活路を見いだして必死に作り続け、「世界の鉄舟」になったのだ。毛先の1本1本に目を凝らし、手のひらに小豆大の瘤ができるまで、頑なに筆づくりにのめり込み、たたき上げた、本物の苦労人である。

昭和461971)年、現在の竹寶堂を設立。鉄舟会長は39歳、17歳から見習いを始めて22年後だ。鉄舟会長は13歳で戦争を体験。幸い戦災を免れたが、広島の原爆で多くの学友を失っている。広島市内の中学2年生の時、学徒動員で2年生は全員、学校から離れた工場で働いていた。市内の学校には1年生が残り、その1年生の殆どが被爆して亡くなったという。中学が広島市内にしかなく、学徒動員されたことで生き残ったのである。

御年82歳の会長はたびたび口にする。「私は原爆の生き残りですから、頑張らんといけんのです」

真の強さ、謙虚さ、自分の置かれた環境の中で執念ともいえる情熱を燃やし、エネルギーを集中させて一つの事をやり続ける職人根性などは、「生かされている意味と意義」を求め続ける気持ちが根っこにあるような気がする。

筆づくりの根幹はゆるがない!

人件費の安い海外企業が熊野の筆づくりの伝統的技法を真似たことから、一時、海外生産の波が押し寄せた。しかし、数年もすると熊野に生産依頼が戻ってきたそうだ。海外での生産を目論んだ人々は、効率化を求めて手間暇を惜しみ、結局、市場から撤退したという。いいモノを作る、お客様のため、お客様が喜ぶモノを作る、これを踏み外してはいけない。それには精度が求められる。

鉄舟会長の毛先を傷めず自然な形に毛先を揃え、形づくる技術「穂」を作る毛を束ねる手技などはその最たるものだ。「半差(はんざし)」という専用の小刀を使って毛先1本1本を確認しながら、毛先の間に刃先を当て、上に向けて抜いていく技などは、刃先が下に向けて擦っていく、しかもカッターナイフを用いる海外技法とは比べものにならない。



職人は道具を大事にする。職人の朝は、何百本もの半差の刃を2~3時間かけて研ぐ作業から始まる。その半差使いを習得するには少なくとも3~5年かかるという。ほかにも化粧筆に応じた原毛の選別・油抜き、命毛の設計など全ての工程を一人でこなすまでには相当の年月を要する。半差使いをはじめ、繊細で丁寧な仕事が日本の、いや熊野の職人技、真骨頂。工夫と技が生む用の美を備えた筆を作り上げる、一人前の職人となるのは並大抵ではない。

鉄舟会長が精魂込めた筆は毛先の柔らかさが肌にしっくりなじむ。慌ただしい朝の化粧も、筆が肌に触れると一瞬にして引力が感じられる。父・一男の背中を追いかけて17歳で筆づくりに投じ、器用に様変わりすることなく、体で覚えた微妙な味、芸術的ですらある化粧筆を作り上げる。これこそが熊野筆が世界に認められた源。多くの女性が絶賛し、絶対的な信頼を寄せるのがわかる。

一人前で満足せずに精進した先にある「一流」「名人」。限られた人しか到達しない世界だが、鉄舟会長は「評価は人のすること」といった風である。
家業を継いで65年。鉄舟会長は二つの事を常に心に秘めている。化粧筆の完成には多くの職人が各パーツを担うが、職人一人ひとりを名人の域に到達できるように育てる事と、進化するメイク技術に呼応する道具づくりのチャレンジャーであり続ける事。それには仲間の和と試行錯誤を繰り返す粘り強さが欠かせない。

今、鉄舟会長はご子息、お孫さんはじめ、熊野の若い職人さんたちへの技、技術の継承に余念がない。時々、どのくらいまで育ったかを振り返って見る。期待もかけるからいろいろ試させる。失敗した経験のない人はカンや直感力が乏しく育つ。職人技の心のありようも伝え、見守る。このやり方、古びた世界のようだが新鮮に感じられる。

「私にはこれしかありません。広島の中心部から20キロ離れた熊野は、貧しくて農作でしか生きる道が無かったのですが、熊野の先人たちが京都・奈良に出向いて『日本の筆づくり』を習得し、それを我々が真正面に取り組んできたお蔭。こうして今、何とかやっていけるようになりました」



一昨年の秋、京都で執り行われた市川團十郎さんの「聖マウリツィオ・ラザロ騎士団」ナイト称号受勲式で、今は亡き團十郎さんが絞り出すように発してくださった、「カネボウさんのお蔭です」の言葉がふと頭をよぎった。先ごろ、鉄舟会長と團十郎夫人・堀越希実子さんとの、職人の自信と確かな使い手による高級化粧筆づくりがスタートした。その出来上がりに思いをはせ、期待感とともに心がじわりと満たされた。

田辺 志保