2015年11月30日月曜日

命のはかなさを乗り越えて

年の瀬に訃報が届いた。驚きとショックで暫く呆然とした。


大げさでなく日本にとっても大きな損失である。2013年10月のブログで紹介した、
「漢字語源研究者・刻字家の高橋先生に教えていただいたこと」前編・後編で、ご記憶の方もあるかもしれないが、私の大切な友人で漢字の師匠でもある、高橋政巳先生が亡くなられたのだ。
8年前、以前の会社の東北地区責任者時代に出会い「人生の宝」とさせていただいた方である。




福島・喜多方を愛し、奥様を愛し、漢字を愛した高橋先生の足跡はあまりに大きい。
古代中国の漢字の研究の第一人者で、刻字家として古代文字の語源をひも解き、それをデザインし「書」と「刻字」に表す希少な方である。
詳細は省くが、ニューヨークでも個展を開かれ、世界に漢字の魅力を伝えた功績も大きいが、私個人は、それぞれの方が持つ名前の「書」が凄いと思っている。
名前の語源を読み取り、自分の名前が己に背負う意味を教えてくれる。文字通り「名は体を表す」だ。自分の名前が古代文字で書かれた「書」は、感激すること間違いない。
今まで多くの方に高橋先生の名前の書を差し上げて、どれだけ喜ばれただろうか。私は、その喜びを深めたくて、高橋先生の解説入りの「書」が届く都度、電話をかけて、名前の語源をもっと深掘りしたくて質問攻めにした。先生はいつでも詳しく丁寧にご説明くださり、いつの間にか私を解説者としても育成戴いた。

我が師・高橋先生は、東京進出のお誘いも断り、故郷喜多方を「漢字の街」として広めることに尽力し続け、喜多方から離れることはなかった。
漢字の語源を語る先生のもとには、全国各地の小学校からも講演が殺到し、時間の許す限り子どもたちの漢字教育にも取り組んでいた。講演で何日も家を空けると、いつも家に帰りたくて仕方なかったようで、「郷土愛ですね」と尋ねたら、「実は、うちの家内に会えないことが理由です」と、信子夫人に会えない寂しさを私にしみじみ語ったことがある。
臆面もなく、奥様のノロケ話をされる先生の一途さと素直さが新鮮で、自分も見習いたいと反省したものだ。



團十郎さんと高橋先生の思い出


「人の命のはかなさを乗り越えて」と題して2013年2月のブログで、敬愛する市川團十郎さんとの別れを嘆いた。舞台おしろいの縁でお会いして親しくさせて頂き、再会をお約束した矢先、公演中の京都で入院され、そのまま帰らぬ人となってしまった。
実は、私は密かに、團十郎さんのお孫さんで海老蔵さんのご長男「勸玄」くんの名前の書を、高橋先生にお願いしていて、團十郎さんにお渡しするのを楽しみにしていた。しかし残念ながら、勸玄くんを待ち焦がれていた團十郎さんにお見せすることは叶わなかった。
高橋先生がお書きになった「勸玄の書」は、弟子が師を超えるのたとえ「青は藍より出でて、藍より青し」の言葉を込められて、藍の染料で書き上げていただいた先生の力作である。
團十郎さんのご自宅にお伺いし、「勸玄」の語源解説を交えながらお渡しすると團十郎夫人と海老蔵夫人は大層喜ばれて、後日ご丁寧にお礼のお手紙を頂戴した。



この時の思い出を、高橋先生と一献傾けて報告する約束も、私の還暦退社と就職のご報告も出来ぬまま、あまりに早く逝ってしまった。こうやって、いくら書いても、いくら語り尽くしても先生の笑顔を見ることは叶わぬのだ。残念で残念で堪らない。

そして、今私が一番案ずるのは、残された信子夫人である。固い絆のお二人だっただけにお悲しみははかり知れず、ただただご愁傷を思うだけである。 ご主人の分までも元気を出されて、一日も早く立ち直ってくださることを願うばかりである。

今頃、私の果たせなかった「勸玄の書」の思い出を、天上で團十郎さんと高橋先生とで一献傾けて盛り上がっているに違いない。もう少し先ですが、何れ私も参加しますから。

そんな楽しい想像を巡らせて、笑顔で別れたいと思う。

高橋先生、さようなら。

知識融合化法認定法人フュージョン株式会社
 東京オフィス長 田辺志保


漢字語源研究者・刻字家の高橋先生に教えていただいたこと。(前編)(後編)
ひとの「命のはかなさ」を乗り越えて。

                                              

2015年11月13日金曜日

ひと時の自由人の思い出

私がフュージョンに勤め始めるまでの僅かな期間だが、初めての自由人を謳歌した。
貴重で充実した時間であり、色々な面白体験もできた。平日、通勤ラッシュ以外の時間帯にラフな格好で電車に乗る。好きなときに散歩をする。絵を描く。平日の午後、海を眺めながら公園のベンチに座る。信じられないほどマッタリできて不思議であった。

正直な感想は、身体が動くうちは「隠居生活も悪くないが長くは続かないなあ」ということと、家内を眺めて「専業主婦も大変なんだな」という気持ちが持てたことである。

家内の朝は忙しい。子どもたちを叩き起こし朝食を与え、娘の弁当、息子の支度と嵐のように過ぎ去ると、次は大量の洗濯物だ。息子は毎日2着の柔道着を汗まみれにする。道着は汗と皮膚ズレで色が変わるので、硬いブラシで襟・背中・袖の汚れを落とし、一晩浸け置きしてから翌日洗濯機に入れる。衣類用漂白剤などダメで、キッチンハイターで道着をブラッシングする。これは深夜の重労働である。明け方から洗濯機を回し続け、干し終えると次は、掃除機が動き出す。
いよいよ私はお邪魔虫なので、楽しい散歩に出かける。



近所の海岸公園には、ご年配者の散歩、リタイヤらしき方のジョッキング、幼稚園児と保母さんのお遊び時間などいたるところに人がいる。公園併設のゲートゴルフ場は、連日満員の盛況ぶりで、皆さんマイクラブ持参である。
我が街を、こんなにゆっくり観察したことがなかったので、マンションが増え、公園が変わり、施設も増えて、それに伴い「人の景色」まで様変わりしていた事に驚いた。

クレーン重機がある街

以前、建築関係の方が教えてくれたのだが、地域の活気度と成長する街は、ぱっと眺めると判るらしい。そのコツは、訪れた街の駅や最寄りのビルから景色を眺めて、まず「移動式クレーン重機」の数を数えるらしい。
大きな建造物や高層マンション建設には、巨大クレーン重機は不可欠だ。クレーン重機には、タイヤ、キャタピラ式など大小あるが、どれも高額な特殊車両だ。当然、操作する運転士も希少価値である。建築会社の自前車両もあるが、多くは専門のレンタル会社から拝借するが、数に限りがあるので、巨大建造物の工事が始まると、国内の移動式クレーン重機と専門家が集結するのだ。
つまり、クレーン重機の種類と数で、工事の規模や完成イメージが判るらしいのだ。
そして、驚くなかれ、希少価値の副産物なのか、移動式クレーン重機マニアが存在しており「てふてふクレーン」というクレーン重機サイトがあるのだ。
贔屓のクレーン車が、どこそこで活躍している、といった書き込みや、クレーンの勇姿を捉えた写真の投稿コーナーまであって、クレーン追っかけマニアには堪らないようだ。



散歩コースの海岸公園も増設のため大きなクレーン重機が4台稼働している。他にも小さなクレーン車まで合わせると、新浦安地区に相当数が集結している。これは4年前の東日本大震災の地下の液状化現象で大打撃を受けたこの街の復興の一環だ。
近所の道路と下水管工事が、この春ようやく始まったので、暫くはクレーン車に目が離せない。
これをお読みの方も、クレーン車を見かけたらどんな変化が訪れるかを想定しながら眺めるのも楽しいかもしれない。

20年後の自分を考える

街の様相は40年周期と云われている。新興住宅地にマイホームを購入した若いご夫婦たちも、40年経つと高齢者に変わる。子どもの泣き声は鳴りを潜め、老夫婦と暮らすペットの鳴き声に代わる。新設の小学校は、先を見据えて老人ホームに転用できる造りになっているので、そこに子どもはいない。先を読む大型スーパーは、40年の減価償却で終わる出店計画になっている。

街の変化と人の変化は一体だ。残念だが、必ずどちらも朽ち果てて新しい時代を作り変えていく。
人も建物も形は変われど「不易流行」の言葉通り、いつまでも変えてはいけないことは、世代を超えても、街も人も「楽しく、いきいきと幸せを謳歌」するためにある、ということ。
当然だが、我が家も20年後は大変化するはずだ。運良く生きていても「80才の老人ボケ」の私と、元気いっぱいの笑顔の家内の姿が見える。子どもたちはそれぞれ独立して、大切な家族を守っている。どこで暮らしているのだろうか。
自分がそうであったように、子どもは「親」や「街」に縛られず自由に生きることだ。

子ども 叱るな 来た道じゃ
年寄り 怒るな 行く道じゃ

この先20年の道のりを、楽しく暮らすコツは、いかなる時も相手の立場で考えて、自ら歩む前向きエンジン「感謝」と「熱意」のアクセルを踏み続け、なるべく「愚痴」や「期待」「諦め」といった後ろ向きブレーキを掛けずに走ることだ。

そして、一番避けたいことは「整備不良」で走れなくなること。健康第一!これしかないか。

                                知識融合化法認定法人フュージョン株式会社
 東京オフィス長 田辺志保